《 第20回 兵高時代の大失敗》                                                                                               2009.08.29
                                                  

私が母校へ勤務し始めて数年経過した頃(昭和32年頃?)、愛媛県教委で始まった勤務評定の問題が各府県で本格的に議論の対象としてとりあげられ、当時、この問題では県の教育委員会、高校長協会、高教組等では大変であった。たまたま高校長協会の世話役をされていたのが故中田光雄第10代校長(県兵庫)先生であった。
高教組では高校入試日に組合員のストを計画し、それを発表した。教育委員会では予定通り高校入試を行う計画であったため、各学校では如何にして正常な入学試験を行うかが、現場での最大の課題であった。色々と調停に向けた調整の努力はされたのであろうが、その努力は実らず当日を迎えた。兵庫高校には県教委から派遣された指導主事等が数名校長室へ来室、朝から緊張した雰囲気であった。
私は名前だけの組合員であったので、入試事務に従事していた。化学教室の実習助手、磯明男氏も特にその事務にたずさわっていた。2人はペアとなって試験の監督に割り当てられていた。多分最終の監督は英語の試験であった筈であるが、答案を回収し、枚数の点検時に1枚不足であることが分かった。
それからが大変。中田校長を先頭に対策を検討し、あらゆる手段の方法も話し合われたのであろうと思うが、私はどうしてよいのか、全く目先真暗と云った状態であった。
県の教育委員会の指導主事の先生方も色々と協議されたと思うが、その日は一応帰られた。中田校長は私と磯氏を呼び、3人でもう一度試験場の教室から答案を持ち運んだ経路を通って丹念に調べようと云われ、階段の隅々まで、途中のゴミ箱の中身迄、丹念に時間をかけて探しまわったが見つからなかった。
私も磯君も校長から見れば子供か孫ぐらい年齢の差があった筈であるが、3人は必死になって、1枚の答案を求めて死にもの狂いであった。どうしてもない、見つからない、空しい努力の連続で、私と磯君は事の重大性がひしひしと感じられ始め、胃が痛んで食欲もなく、一晩苦しんで憔悴した。その結果を私は私なりに色々と考えると、全くどうしてよいか分らなかった。校長先生も勿論、色々と考えられたこともさぞ多く、さぞ大きい問題であったろうと、今の私の立場を考え、これから推して想像できない程であっただろうと思う。
その翌日は試験の採点、集計、判定会議等々の予定であったが、私は不足した1枚の答案のことしか頭にはなく、全く事の重大性に押しつぶされ、自分の無力、恥ずかしさを責めるのみであった。判定会議の席では一体どうしたらよいのか?半ばあきらめのついた心情でもあった。
判定会議が始まり、入学試験実施の状況、成績の概況等々の概略から説明があり、いよいよ個別に判定が始まる前に、1枚の答案の不回収についての一通りの説明がなされ、これをどう取扱うかの検討に入った後に、「この生徒が不回収の答案の点数を考慮に入れなくても合格の線を越えているではないか」と云うことを述べる先生がいて、紛失した答案を考えなくてもよいではないかとの総員の賛成が得られて、急転直下、解決に至った。その時、私は事の重大性に押しつぶされそうになっていた自分が、一先生(誰であったか思い出せない)の意見で、急転直下、解決できたことで神に感謝し、先生方の一人一人に感謝の念を捧げた。
また、その時は、自分自身が母校二中を受験した時、昼弁当を不持参で(午後にある)口頭試問の待ち合わせ中に室を脱け出して、パン売場へ急いでいる時、見廻りの白根先生に見つかり、大騒動を引き起こしたということ(詳細は第1回「私の忘れ得ぬ先生」2006.6.22に掲載)を思い出し、因果応報をつくづくと思い返したのである。

中田光雄第10代校長は大変有名な老練校長であったが、もう一、二、先生のことでご披露したい。先生は県立星陵高校校長として、色々と斯界(しかい)のためご尽力されていた先生で、兵庫高校校長として着任されてからは建築とか施設・設備に力を入れられ、当時、私たちの同僚であり二中の先輩であった松田毅先生が冗談まじりに、校長先生が着任されて以来、校内のあちこちが見違える程改修され、綺麗になって「なかった光を」取り戻したなあと云われたことがあり、「なかった光」(中田光雄)をさすがに国語の教師だけあって、うまくとり合わされたのを、その後今まで忘れたことはない。
何かあると2先生を含めて、当時の同僚の先生方のお顔が髣髴(ほうふつ)として浮かんでくるのが懐かしい。

中田校長の思い出として、終生忘れられない二、三のことがあるので、お許しを得たものとしてご披露したい。
その一つは、兵高が修学旅行として宮崎方面を取り上げた当時、先生が校長として私達と一緒に参加された。
先ず、青島のことであるが、海岸線の一帯が波の浸食作用で「鬼の洗濯板」と称される奇観を呈していたが、これを一緒に見ておられた中田校長先生が「ウーン、うまいことしたものだなあ」と云われた。途端に同行していた体育の教官、藤原先生が「先生、何云ってまんの。自然の波の浸食作用でっせ」と云ったので、校長先生は「見事だなあ」と絶句されたことが忘れられない。

(その2)
修学旅行団が宮崎市内の2〜3の旅館に分館した時のことである。付添いの女子教員の宿泊する宿は、生徒諸君の関係で、教員(女子)のみは本部の旅館で入浴してくださいとのことで、予めその手配がされていたようである。その場所は本部のある大きい部屋の内部にある浴場で、私も全くその事は知らなかった。校長先生はじめ4〜5人の男子教員が休憩し、そこで宿泊する大部屋の、一番奥に問題の浴場があったのであるが、私達男性は知らぬが仏で、藤戸先生(18陽会で社会の先生)と私の2人が当番として、その大部屋の布団の上に寝そべっていた。藤戸先生が盛んに私に目と指で合図を送られるので、私も先生の指すところを見て、ハッと驚いた。
私が寝そべっていた大部屋の、一番奥に問題の風呂場があり、そこへ入るのには大部屋から直接は無理で、特別の通路があったようで、女子教員は周知されていたようである。脱衣する部屋と大部屋は勿論別々で、出入りすることは無理であったが、カーテンをひかないとカーテン越しに影絵の如く、中の様子は見れば分かるのであった。
最初の入浴に来られた先生は全く無頓着な先生で、影絵を見ておれば一挙手、一投足が分かるので、藤戸先生が私に盛んにシグナルを送ってこられ、こちらも何ともしようのない状態であった。
しばらくして、別の先生が入浴に来られたが、この先生はさすが淑婦と申すべきか、先ず第一番にカーテンを引かれた。日頃、学校でお見かけしている通りで、両先生の違いがはっきりと読み取れた。
ややあって、大部屋へ戻ってこられた中田校長先生は、藤戸先生から事の次第を説明され、それを一言一句聞き洩らすまいと聞いておられるうちに、自分も布団の上をゴロゴロ転びまわりつつ、抱腹絶倒されていた様子を、私は今もはっきりと思い出せる。
両先生の大変懐かしい忘れることのない一面である。合掌。

                             平成21年7月8日

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