《 第18回 軍隊時代の回顧》                                                                                               2009.08.07
                                                  

私は徴兵検査を本籍地(姫路市)の公会堂で受けて、第一乙種合格と制定された。
21歳になってからのことである。これとは別に、大学の卒業と同時に実社会へ入ることになるが、当時は戦時中のことで、文科系の人達は学業半ばにして学徒出陣と云われるように、大挙国家のために奉仕しなければならなかった。
理工科系の学生も安穏な勉学を続ける訳にはいかなかったが、それぞれの専門的な分野で国のため奉仕ができるよう、少しの猶予が認められた。私は専攻学科の関係で陸軍の技術候補生になるべく、名古屋まで受験のために出かけた。試験にパスし、大学卒業を待って岐阜陸軍航空整備学校に入隊した。
姉の同行もあったが、営門でシャットアウト。何も持たずに入らねばならなかった。第一候補生隊第一区隊に編入され、正式に入隊したと云うことになった

第一候補生隊第一区隊第一班に編入され、軍隊生活が始まった。全ての行動は喇叭(ラッパ)によって行わねばならず、起床から就床まで1日の行動が定められていた。班の統率は古参の下士官(安野曹長)が行った。
この班長は典型的な下士官で、きわめて厳正で徹底していた。
一例をあげると、「気を付け」の号令で私がその姿勢をとっても、腕・手を叩かれ、どこがどう悪いか即座には云ってくれない。こちらも緊張するばかりで、自分は一分のすきもない積もりで立っているが、駄目。最後の最後まで云ってくれずに、悪い点を指摘された。
要は緊張している気持が現れていないと云うこと。ではどうすればよいのか、首をひねっているばかりで焦る一方である。やっと最後に教えてくれたのは、手の指を伸ばすことは当然であるが、親指を人差指に密着させるのだと分からせてくれた。
敬礼する時も同様、帽子のヒサシに軽く沿わせよ、手の指は全部くっつけよ、である。
ところが現実は将校の中でも、上位の将官、佐官クラスになると、そんな模範的な敬礼をする人はいない。然し、私は指摘されたことは確かに正しいと思い、今でもその気持は持ち続けている(つもりである)。
よく、いろんな公的施設に行くと、守衛の人が敬礼をしているが、私が安野曹長から教えられたような、気合の入った、模範的な敬礼をする人は少ない。敬礼はほんの一例であって、要は人に接する場合には「誠心誠意」であれと云う事につきる。百獣の王、ライオンは一匹のネズミを捕まえるのに全力を傾注すると云う。

それから、何よりもやかましく云われるのは時間厳守である
一度次のようなことがあった。例のラッパで朝の起床である。
「オキロヨ、オキロヨ、ミナオキロ、オキナイト聯隊長に叱られる」*
つづいて点呼のラッパ。
「点呼だ、点呼だ、人員調べて週番士官に報告したか、未だか」*
(* ラッパの音を内容に合うように言葉に替えて表したもの)

ある寒い、底冷えのきつい朝、伊吹おろしの吹きつける中を、朝の集合に何人かが遅刻したため、全員がその責を負って雪の積もった営庭に正座させられ、脚のシビレも限度を越えて、立と云われても立てない。冷え切って這いながら内務班(居室)へ帰る者、トイレへ直行する者、さんざんな目に合わされた。時間厳守と云う良い習慣がその時身についた。軍隊は厳しいばかりでなく、礼儀、時間の厳守等々、色々の公共生活の基本的な習慣を身につけてくれたと思っている。

朝夕によく営庭に集合して軍歌の合唱をしたが、岐阜の学校では、もっぱら軍神加藤中佐を讃える歌、隼戦闘隊等を全員で歌った。
又我々が入隊した頃は渡洋爆撃機が中国の空爆のため、早朝から各務ヶ原(かがみがはら)飛行場から飛立っていくので大変であった。

次に、両足の踵の皮が殆どむけて、歩くのに大変困ったことがあって、これは一生忘れられないことである。岐阜から大垣迄、演習の訓練をしつつ往復したことがあり、夜を徹して武装したまま歩く、徒歩・演習訓練である。夜通し歩くと、歩き乍ら寝るようなことになることもあり、担っている銃を落としそうになって、ハッと目が醒めることが再々であった。演習が終了し、帰隊して後、踵の水ぶくれから始まり、かなり分厚い皮が脱落したときは大変であった。当分は薄氷を踏むようにしか歩けなかった。

次に、よく漫画で目から星が飛び出すような場面が絵になっているが、私自身それを経験して、漫画の表現どおりであることを知った。それをお話しすることにします。

バツカン当番と称して、朝・昼・晩と1日の班員の食事を炊事場から内務班迄運び、分配し、配膳する。食事が終ると、班員の食事の後始末をするのがその任務である。私がその炊事当番に当たり、最後の片づけを終了するのが遅れたために、返納し終わって内務班(自分の居る処)へ帰るのが遅れて入浴の時間がなくなる程遅くなり、急いで帰ろうとしたら薄暗い位になってしまって、ヤキモキしながら小走りしていると、薄暗い前方から週番仕官(隊内の監督・巡視等をする将校で、大きいタスキを肩にかけているこわい将校)が来るのが分かった。
大分はなれてはいたが、まともに出会うのは分かりきっているので、深さ4m位、幅7〜8mの側溝のはしっこに沿って、隠れるように、見つからぬように歩くつもりで道を選んだところ、目測が外れ(薄暗くなっていたので)、ストーンと云う感じで溝へ落下した。その落ちる瞬間、目からパッパッと星がとんだ。
まさに本に書いてある通りで、落ちたまま、何卒見つからぬようにと神仏に祈っていた。週番仕官はそのまま通り過ぎていった。ああ、助かったとホッとした。幸いにも溝の水は少なかった。

もう1件、失敗談を申します。
当時、国内ではどこであろうと食糧難で、主食を始めとし、多くのものが配給制であり、一般の家庭では実に困っていた。軍隊でも例外ではなく、炊事当番が配膳する時は、分量に迄公平になるように注意していた。若い連中でもあり、厳しい訓練が毎日のことで、絶えず空腹感に襲われていた。そんな毎日を繰返しているうちに正月を迎え、元旦の午後に外出が許された。勿論時間が制限される。
私は大学時代に旧制高校の親友が大学の実習のため近くの発電所に実習に来ていたことがあるのを思い出し、懐かしさの余り行ってみようとしたが、地理不案内であきらめて気の向くまま近郊をブラブラしていると、どの農家でも家の前の空地に「イモするめ」(さつまいもをむして薄く輪切りにしたのを大気に触れさせてほしあげると半透明のあめ色になって大変おいしい)がならべてある。
農家の人にその作り方をなど聞いたところ、ていねいに教えていただき、製品を頂戴した。感謝感激して頂戴し、ひそかに持ち帰った。
又、空襲時には利用しようと思っていた。ところが就床し、消灯して間もなく、例のイモスルメを隠してある所へネズミが盛んに跳梁(ちょうりょう)し始めた。時が経つにつれ益々ひどくなってきた。ひどくなると大変なので、止むなく無念の思いを懐きつつ、イモスルメを全部厠(かわや トイレ)へもっていって捨てた。これは思い出すたびに万感胸に迫るというところです。

最後にもう一つ白状します。
岐阜で入隊中には陸軍の関係のことは一通り教えられるので、一般の歩兵と同じような訓練もやらねばならない。ある時、校外へ出て歩兵と同様の訓練があり、長距離の行軍があった時のことである。腹痛が起ってきた。始めは我慢できる位に思っていたが、一向に軽くはならず、むしろひどくなってくるが、行軍中でもあり、とことんまで我慢して進んでいる途中、一軒の農家をみたところ、便所はお母屋と少し離れた庭のはずれの所にあった。行軍中でもあり、途中で隊列を離れると云うことはもっての他のことながら、我慢しきれなくなって、戦友にも告げず無断で駆け込んで、急いで用をたして、行軍の列に駆け込んだことがあった。
背に腹は替えられずと云ったところでした。「窮した挙句」、まさにそんな感じでした。見つかればどんなことになっていたかと思い出しては冷や汗をかいています。

                                      平成21年7月8日

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