《 第17回 私と高槻のかかわり(何故私が高槻に)》                                                                                                2009.07.24
                                                  

[第17回のお話の前に菅沼先生のお言葉を紹介しておきます。]  水島記
「6月の梅雨の頃を迎えました。今回は大変短編ですが、私が何故高槻を故郷の如くにしているかと云う、素朴な疑問にお答えする意味で、思いきって短編をお送りいたします」


私がはじめて高槻へ来たのは旧制中学の3年生ぐらいだったと思っている。
当時二中から3年生あるいは4年生になると高槻にあった工兵聯隊へ見学に来ることになっていた。現在のようにJRのきわめて便利で至れりつくせりのサービスのまだ全く考えられもしなかった昭和10年ごろのことで、兵庫駅から高槻駅まで汽車に乗って来た筈である。全く記憶に残っていない。
駅から工兵隊へ行く道は市の幹線道路の一つであった筈で、地道を南東へ、唯一の繁華街を通りぬけ、約20分余歩いた所にある工兵隊の営門へ着く。営門付近のほんの一部が現在も保存されている。工兵隊では、近くを流れる芥川や淀川を利用して各種の工兵隊特有の訓練が行われるので、それらを見学した記憶がある。渡河訓練(鉄舟を利用しての渡河)、爆破訓練等を見せてもらった。
高槻には昔、城があり、キリシタン大名として有名な高山右近の居城があった。当時西日本の交通の要路であった西国街道が高槻市の北を通り、城へ通ずる街道の松並木の一部が現在ものこっていて当時の名残がとどめられている。その他古墳、遺蹟が多い所である。

私がこの高槻と縁ができたのは戦争がキッカケである。
明石の川崎航空機KKが、そのほんの一部門を高槻に既存の鐘紡の工場へ移したのがその始まりで、私は神戸の自宅から明石へ通っていたのが、神戸⇔高槻と変ったのである。戦争がかなり続いた後半の時期で、同僚の何名かの人達も高槻へ転居となり、その一部の人は通勤のわずらわしさから逃れるべく、工場の近くに仮寓を求めていた。
当時、高槻の近辺の農家では、市街地から疎開する人達を受け入れるように求められていて、家族の少ない家では、タタミの余剰枚数2枚に付いて1人を受け入れるように要求され、指導されていたと云う。
私よりも早く、下宿先を見つけていた同僚に頼んでいた先から紹介された家があった。ところが高槻市の北のはずれの、ひと山越えた盆地状の村であった。

そこは昔、キリシタンの追放を免れた教徒がひそかにかくれることもあった山村で、私が住むようになった時には、寒天をつくる農家が2〜3軒あった。地名は原という。
閑静で人情のこまやかな村で、神戸育ちの私は大変気に入ったが、通勤の手段としては数少ない民間人経営のバス(日の出バス)か自転車しかなかった。道は地道で、それと今の状態を比べると比較にならぬ程で、山道で淋しい(特に夜間はめったに通る人がない)坂道で、今では想像もつかぬ道と、その道には何も(家など)なかった。
JRの駅から歩くと40分はかかる。然し、夏はうだるような暑さでも、一山越えれば忽ち一陣の涼風が暑さを忘れさせてくれた。坂道ではタヌキ、キツネ、ウサギ等に出会うことが昔はよくあったと云う。私は通勤の手段として自転車を工面した。

朝は村から峠を越えると坂道ばかりで足を動かす必要はなかったが、地道で石ころが多いので余りスピードは出せなかった。帰りは反対で、坂道のほんの手前まで乗れても坂にかかると押して上がらねばならなかった。私が工面した自転車は新品ではなかったので、たえず「キーキー」音がしたので、峠から下宿先までペダルの奇音が下宿ではよく聞こえたようで、その音で「警戒警報」と称してそこの娘2人は「気を付け」をしていたらしい。その村では将校はめったに見たことはなかったそうである。
その様な不便な村でも各戸に防空壕が作ってあった。下宿先にも家の庭には山を利用した防空壕がこしらえてあったが、入ったことはなかった。
移転先の工場へ、やがて陸軍整備兵が2個小隊ぐらい来て、航空機の部品の製作や、戦局の不利になった段階ではそれらの疎開や保存に従事していた。今はJR高槻駅から市バスがその(原と云う)村へ往復し大変便利になっている。

私は下宿していた家の末娘と結婚し、兵庫県で教員をしていた間は神戸で暮らしていたが、台風のため神戸の丸山の住宅が被害を受けたのを契機に、高槻の家内の実家に暫らく居候し、その後高槻で正式に一家を構えた関係で、兵庫県の高校勤務を終えたのを契機として、当地で私学勤務を始めた。
何故私が高槻に住むようになったのか、その理由は以上の通りです。然し、心は絶えず神戸、母校にも向いております。
                               平成21年6月11日
 

1)工兵聯隊(の営門)は高山右近の居城だった高槻城跡公園(高槻駅の南)の一角にあります。

2)松並木は阪急高槻市駅東の八丁畷交差点の北、県道79号線(大阪医科大学付属病院東側)の歩道に残されています。

3)原は菅沼先生が現在お住まいの西之川原(JR高槻駅の北西)の北、摂津峡を含む広域の街です。先生の下宿は摂津峡付近だったのでしょうか。

4)川崎航空機KKは現在のJT生命誌研究館(紫町:JR高槻駅の北西)にありました。原町から紫町までの坂道を自転車で通勤されたわけです。

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                             (水島記)

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