《 第16回 小学校時代の思い出(3題) 》                                                                                               2009.07.12
                                                  

(1)誤診(ジフテリア)

私は小学校の頃、よく医者通いをしていた。いつも神戸の和田岬にあった三菱病院へ連れて行かれた。今の病院と違って和田岬のいちばん東端に近い所にあったと思う。木造の病院ではなかったかと、思いでもおぼろ気であるが、病院通いはいちばん嫌いであった。
診てもらってから小学校迄母に来てもらって、担任の先生にあいさつをしてもらうのがおきまりの順序であった。
家から病院へ行って、小学校迄、距離にすると
kmぐらいあったのではないかと思うが、母にはずい分迷惑をかけたんじゃないかと、今頃申し訳ないと思っている。

そんな頃に、ジフテリアと診断されて入院となった。
小さい頃から、会下山に入ったらもうだめだといつも親、祖父母から云われていたが、当時、伝染病院は上沢通りの北の会下山のあたりにあったんだろうと思うが、父母、祖父母の話を聞かされているので、子供心に「会下山、即、死」と云った概念があったのだろうと思う。
両親は大変心配したのだろうと思うが、私自身も心配で、どうなるんだろうと気が気でなかった。

ところが、週間も経った頃、医師と両親の間でどう云うことが話しになったのか分からないが、退院と云うことに決定したようで、風呂に入り、あの頃では珍しいであろうアイスクリームを食事に出してもらって、私自身は眼をパチクリさせて退院した。

その三菱病院のお医者さんは、病院通いが度重なるにつれて心安くなり、私が二中に入学してから色々とお世話になって、先生の御子息が私の年位後に武陽会員になっている。
私はよく喉をいためると、ジフテリア状とまちがわれるような症状になるんだろうと理解するようになった。

(2)蜂騒動

小学校の5年生か4年生の頃のことではなかったかと思っているが、浜山小学校の級友何人かと市電に乗ってか、歩いてかも忘れるぐらいですが、はっきりと思い出せるのは高取山へ遊びに行った時のことが忘れられません。
中腹ぐらいのところで空地を見つけて遊んでいるうちに、級友の一人が眼の下をセグロ足長蜂に刺された。
それからが大変。はれ上がってくるし、友人は痛い痛いと泣き出さんばかり。
そこで私が理科の授業で習った中和のことを思い出し、アンモニア水がいちばんよいだろう、と云ってもアンモニア水とか準備もしていないし、そこで一計を案じて誰かの小便を使用するしかないと提案し、誰が提供したのかも思い出せないが、ハンカチに浸み込ませた妙薬を眼の下に当てがって気休めにして、とにかく下山しようと、五番町2丁目(?)のあたりにあったとうろ覚えにしていた薬局を探し回った。
薬局を見つけて駆け込んで、「かようしかじか」と店の小父さんに頼んだところ、気安く手当てをしていただいて、友人は何とか痛みも和らぎ、いっしょに帰ったことがあった。
その当時、理科を教えていた先生は小林先生だったと思うが、大変ウィットに富んだ先生で、亜硫酸ガス(SO2)を生徒たちに教えるときに大きな声を張り上げ「アー、硫酸ガス」と云われるので、生徒達は皆始めの「アー」にびっくりして、ひとりでに先生の説明に注意をそそいで聞いていた。
その先生のペースにうまく乗せられていた。
失礼ではあるが、「南京虫」と云う綽名がついていた先生で、お顔もハッキリと浮かび上がってくるのが懐かしい。
ネチネチと生徒を指導されるので、生徒もあの先生につかまったらもうだめだとよく分かっていた。

(3)故野村五郎君のこと

私が小学校の上級生(何年だったかの記憶が不正確)の頃に、小学校の校舎が全面改築されることになった。
木造2階建ての校舎が鉄筋コンクリート建となるので、子供なりに期待もしていた。校舎が出来る迄、一時期、市電の停留場にしたら2停留場ぐらい離れた所に移ることになった。そこは、もと鐘ヶ淵紡績会社の女子工員さん達の寄宿舎であった所のようであった。2階建の長い木造の建物であった。
教室がどんな風に利用されていたかは忘れてしまったが、休み時間に起った事で今だに忘れられない事があった。

建物と建物の間に、セメントの5cmぐらいの高さの枠で囲った1間半ぐらいの四角い手洗い場のような所があって、生徒たちが遊び場のように利用していたのではないかと思う。あるていどの厚さの砂もあったような記憶もある。
それを利用して遊んでいた私達が、誰云うともなく相撲をとっていた。
そのうち野村五郎君と云うクラスでいちばん大きい生徒といちばん小さい私が相撲することになった。どちらがどんな風に仕掛けたのかも分からないが、2人とも転んでしまった。
野村君が顔をしかめながら起き上がり、片一方の手で他の腕の肘から下の部分を押さえていた。よく見て、私もその下腕部が明らかに曲がっていたのを知った(この状態は今だに忘れることのできないぐらいショックだった)。
先生方もさぞ驚かれたと思うが、骨折でその後しばらくの間は下腕部をホータイで吊るしていたのが記憶にある。
彼を見るたびに「すまない」と云う気持になっていた。小学校を卒業して、彼は三中(現長田高校)、私は二中へそれぞれ進学した。

高槻中・高校でも生徒諸君が負傷することが多いが、いつも自分の小学校当時のことを思い出しています。
浜山小学校5年クラス写真
                                                    平成21年5月16日

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