《 第14回 金光大阪高校とのかかわりについて 》                                                                                               2009.06.23
                                                  

私の兵庫県の高校勤務が終了したのは昭和57年3月末でした。当時は県立西宮北高校の校長をしていました。その時、県の高校長で同じ時に定年退職予定の人が50余名いました。退職1年前に、県の教職員課のお世話でそれぞれの退職後の身のふり方についてのあらかじめの調査が行われた。
その第1回の聴取があった時、各自の希望や予定について一人ずつ聞かれた。ところが、私は何の聞きとりもしないので尋ねると、係りの人は「先生はまあよろしい」と大変そっけない返事で、私は狐につままれた思いでした。然し「一体どうなるのだろう」との不安感がその後も絶えずありました。
なぜ私の聞きとりをしないのか、なぜ「先生はまあいい」のか不思議に思ったが、なるようになるだろうと思いつつ日を送っていた。

一学期の終業式を終えて帰宅し、夕食を終った頃に、当時灘高校の校長をしておられた勝山校長先生から電話があり、先生から「来年の退職時にどうするのか考えていますか」とのことで、私は「いや今のところこれと云って考えてはいません」と申し上げると、「私立高校へ行く気があるか、もしあるなら今二つ話があるので考えてみなさい。一つは岡山にある白陵高校、もう一つは来春に開校予定の一校で、高槻にできる学校」と云われた。
突然のお電話でびっくりしたので即答はできず、しばらくの猶予をお願いした。
愚妻も当時有名だった勝山校長からの御電話でびっくりしていた。
直接御会いして聞かせていただくことにして、灘高校へお伺いに行った。
高槻にできる学校に大変関心があって、聞くと、これから建てる学校で、宗教法人金光教難波教会長が中心となって高槻の上牧(かんまき)にできる予定であるとのこと。家内とも相談し、自宅の関係から高槻を希望した。

然し、学校について色々とお聞きして次々に分ってきたことは、学校建設の計画を府の私学課等に提出し、府の許可がおりた段階であり、場所は高槻上牧であるとのことであった。実際に見に行ったところ、阪急電車の上牧駅のすぐ南、国道に面した所で、その当時はゴルフの打ち放しの練習場と、その東の工場がある所でかなり広い場所であることが分かった。そして私は校長として予定されているのだと云うことが分ってきた。

勝山先生とはそれまでに2、3度何かの会合でお逢いしたことがあったが、あまり面識があるとは云えなかった。金光協会の方は難波教会の近藤教会長が責任者となって担当しておられたようであったが急逝され、その後を肥後橋の玉水教会の湯川教会長が担当されるようになった。初期のもろもろの基本的な諸交渉を担当する人がもう1名おられてその任に当たっていた。
その後、勝山校長先生からの連絡で湯川教会長と御会いすることになり、金光教玉水教会へ初めて訪問した。その席で私が校長として学校の創設を担当することが内定した。
それから私は色々のことで大変いそがしくなってきたが、勝山校長が教育委員会(兵庫県の)に予め話をしておいて下さったので、割合に仕事はやり易かった。時折、工事の進捗状況を見に行っていた。
一番困ったのは開校後の学校の教員等を集めることであった。先ず、教頭と幹部の教員、事務長と事務職要員の確保であったが、実際の学校は目の前に出来上ってはいないので、交渉をしても相手は不安な表情をしたり、困惑しているのがよく分かった。然し何とか幹部級を決め、各教科担当の教員を集めるのは急を要するが、思うようには確保しにくかった。
採用する教員も私一人がやらねばならないし、相手の事情も色々考慮して行わねばならず、実に大変であった。
相手の方も学校ができていないため不安に思う人もあり、採用の諸条件等は決定していないし、全く苦労した。時と場合によっては、私が車で出かけ、助手席に座ってもらって面談した事もあった。又、学校の近くの婦人の方を何名か雑用のためにパート採用したり、校務員の採用に至る迄、実に大変であった。又、建設業者との折衝を時に応じてする必要もあった。
多忙ではあったが、張り合いがあり、前途に対する大きな希望を持っていた。
然し校舎の建設が4月開校に間に合うのか、気苦労が絶えることはなかった。何とか目鼻がつきそうになったら、次は生徒募集で気の安まることなしであった。
勝山校長も大変気を遣って頂き、生徒集めについての細かい注意をして頂いたり、塾関係の大手のところへ同道して頂いたり、大変ご助力をいただいたが、地元の市側との折衝、生徒募集、入学試験の実施等々、問題山積みし、学校開設がどれほど大変なものか、身をもって体験し、本当に勉強になったと回想している。教員の採用予定者が出揃うと、その面接、採用試験は難波教会の建物の教室を使用して行った。

次に大きいことは生徒募集に関することであった。この問題については、浪速女子高校(金光教関係の学校で大阪では最も古い女子高)の中西校長先生が色々と募集についての秘策を助言して下さり参考になった。然し実際に募集して、果たして何名の志願者が集まるのか、まだ学校も出来上がっていないし、志願者も不安に思うだろうし、考えれば考えるほど未知の要素が多く、内心は極めて不安、不安定なものであったことは事実である。何名の応募者があるのかがいちばん気がかりで大きな大きな不安材料ではあったが、入試の試験場をどうするかが又頭の痛い話であった。

もと工場の倉庫であった建物を使うべく調べると、床全体が動き出すような所であったり、とにかく建築中の一部の場所を使ったりして、又応募者の人数も分らないまま、何とか試験場の使用には目途がつきそうだとなって、入試の実際の運営(問題の作成、採点、合否判定会議etc)など考えるべき難問が山積みしているのには、全く絶望的になることもあったのは事実である。
応募者の予想数が全く掴めない時に、学校の北の山中にある柳谷観音さんへひそかに参詣し、「概数なりと夢にでも御教示してください」と祈りに詣ったこともありました。
パート勤務のご近所の婦人方が、阪急電車が上牧駅に到着する度に、出願に来る人が何人だろうと色々話し合っていたのを思いだす。
学校の建設の目鼻がつく迄は、幹部の先生方との打ち合わせをするのに自宅を使ったり、校舎が完成に近づいてくる頃には、管理用の鍵のkey box は当分毎日、私宅へ持ち帰っていたりしていた。校舎を完成する迄にも、どれほど多くの人々のお力を借りねばならないかを、しみじみと感得させてもらった。
「創業と守成と何れか難き」と云うことばをしみじみと味わっている。

生徒募集は蓋を開けてみると、何とか面目が保てるぐらいは集まった。開校間近い学校だったので、満足できる筈はなかった。有名な女優さんが子供の受験手続のため、真っ赤な車で学校へ来たのを見て悪い気はしなかった。
金光教は各地にある教会の信者さんの関係からも応募者が割合集まったと思う。開校式もまだ完成していなかった校舎を使って行われ、学校として動き始めたと云う実感をシミジミと味合せてもらった。
然し、生徒指導の面ではとてもとても問題が多く、連日会議々々で先生方には大変御苦労をおかけしたと思います。生徒指導部だけではなくて、当時在籍の先生方全部で会議を行っていましたので、連日のように続いた会議はお手あげでした。生徒諸君が信者かどうかは全く無関係でした。

私は学校の名前を挙げるにはスポーツがいちばんよいだろうと思い、その方針で進むことにして先生方にもご苦労をかけました。あの野球部(註)は、始めは多少経験がありそうな人が2人いました。私が辞めてから又指導者が増加して、力をいれてくれたのだろうと思っています。
一つだけ忘れられないのは、柔道を強くしたいと思い、高槻二中から入学してきた生徒に期待している生徒がいて、成長を楽しみにしていたところ、2年の夏休みに退学したいとのことで、いろいろ聞くと大相撲へ行きたいとのこと。涙を呑んで許可したことがあります、立浪部屋へ入り、由緒ある羽黒山(横綱)にちなんで羽黒海憲司という四股名で、幕下のもう少しで十両入りと云うところで引退(ただし真面目だったので引退後も相撲界で何か仕事をさせて頂けるとか)したのがいます。毎場所丹念に場所毎に番付表を送ってきてくれましたが、もう結構だよとお断りしたほど立派な生徒でした。番付表は抱える程沢山になりました。
甲子園の檜舞台で「金光大阪」の活躍を拝見するにつけ、スポーツで名を挙げようと考えた私の初志が叶えられて大変嬉しく思っています。然し、進学の面でも大変頑張っているようです。

学校の創設がやっと目鼻がつくようになった時、教員に採用予定の方々と岡山県の金光経本部へ参詣し、同時に昔からあった名門金光中学へも学校訪問して色々と勉強し、張切っていたことが思い出されます。
                                平成21年5月1日

(註)金光大阪野球部は2009年選抜高校野球に出場(7年ぶり2度目)、惜しくも初戦で敗退しました。

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