《 第13回 懐旧談(兵庫高校退職のわけ) 》                                                                                               2009.06.13
                                                  

私が母校に勤務したのは昭和25年(1950年)4月からで、姉崎先生が教頭をされていた時である。当時は丸山に住んでいた。ところが勤務を始めて10年くらい経った頃、当時加古川あたりに上陸した台風のため、丸山の高台に位置していた家の屋根が強風のため壊され、雨漏りがひどく、家の中にテントを張るほどひどかった。家内の実家から姉が見舞いに来てくれて、惨状を目のあたりに見て、ひとまず高槻の家内の実家へ避難することになった。
丁度、54陽会の娘が兵庫に在籍中だったので、父娘2人が毎日、それ以来遠路はるばる通うことになった。娘が卒業し、私一人で通勤したが、秋になると琵琶湖の霧の発生がひどくなり、そのため通勤の国鉄の遅れが毎日のように続いたりして勤務に支障が出る心配が続いていた。
又、当時、山内先生に柔道部の顧問を手伝って欲しいと云われていたので、51陽会あたりからその方にも関係していたが、帰宅が遅くなるので全くお手上げの状態であった。
どこかもっと近いところであればと思って、あちこち探さざるを得なくなった。

たまたま兵庫の教頭をしておられた平木智彦先生が、県立尼崎北高校の校長でおられることが分り、お願いしたところ、来るように云っていただいた。兵庫県の東部で交通の便もよく、この上ないことと思ったが、母校を去ること、生徒諸君と離れることは云うに云えない淋しい、つらい、無責任な思いをしました。
始めは順調であったけれども、運悪いことに東大を始めとした学園紛争の余波が高校にも波及し、大阪にも高校紛争が、地理的にいちばん近い兵庫県にもその影響が及んで尼北高で紛争が始まった。勤務早々から何か異常な感じはしておったけれども、母校では何も役立つような校務分掌をしていなかった私が、校長先生から総務の大役をたのまれた。
母校で全くその様な経験をしていないのに、校長から何とかやってくれと云われ、3年半の間、私なりに一生けんめい頑張り通した。眼が充血して兎のように真っ赤になり、その治療には長期間を要した。これから、私には不向きな管理面の仕事に入るような結果となった。
尼北の高校紛争の折には、いちばん私の印象に残っている痛ましい事を経験したが、職員会議の折に色々生徒指導のことで尽力していた体育の教諭が職員会議で説明中、突然倒れたことがあったり、苦しいことが多かった。
尼北で4年目を迎えた夏休みの終りに、県立北条高校教頭を命ぜられ、当時は陸の孤島といわれていた北条で2年半の間単身赴任、教員宿舎で暮らした。大変純朴な農村地帯であり、五百羅漢でも有名な地で土帰月来(土曜の夜に高槻へ帰り、日曜の夜北条へ帰る)の真似事をしていた。三宮駅よりの神姫バスに2年半の間お世話になった。現在は中国道の完成で神姫バスよりも早く便利に行ける様になっている。
北条高校教頭時代に修学旅行で一緒に行った当時の高2の生徒が、現任高の英語の教諭として勤めていて、私が教員生活の終りの、現任高槻高校長として赴任した時、第1番に挨拶に来てくれて色々と話をしている内に、北条時代の生徒であることを知って懐かしい思いをした。
兵庫県の勤務は北条から宝塚高校の校長(3年)、引き続き西宮北高校で5年間校長を勤めて県を退官後、大阪の私学へ転じ、金光大阪の初代校長、現在の高槻高校で非常勤講師を5年して校長を命じられ、18年努めています。

北条高校は土地柄、純朴な人情につつまれた所であることを実感しました。学校は色々の木に恵まれていて、大きい池があり、校庭のあちこちに椿、山茶花があり、ワラビ、ゼンマイ等が春に顔を出し、桔梗を校庭で眺められるような自然に恵まれた学校でした。
人情豊かな地で、朝早くには隣接の県立農業高校から牛の鳴き声が聞かれ、校外の農業用溜池には睡蓮を始め、野性味豊かな水棲植物が可憐な花を咲かせていました。
私が神戸二中の4年生当時、青野ヶ原の陸軍廠営(しょうえい)地が北条の手前にあり、そこで一夜廠営訓練をした時、歩哨として立番をしていて、ふと見上げた夜空にきらめく満天の星を眺めた時には思わず神秘な宇宙を実感したことを今もってありありと思い出し、人間のささやかな存在を感じるばかりです。

                            平成21年5月1日

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