《 第12回 屈辱の日の悲しさ 》                                                                                              2009.06.03
                                                  

私は終戦後、陸軍航空本部の現地での解散(除隊)の日までは、一応毎日、和坂(かにがさか)にある川崎航空機KKへ通っていたが、虚脱状態の毎日であった。いつも帰途は舞子で下車して、南の海岸でひと泳ぎして帰るのが日課となった。
現在の舞子駅とは全く違って、駅を出ると松林が国道2号線のところまで続き、2号線を渡ると歩道、その下に20mあまりの幅で砂浜が東西にひろがっていた。ただし駅の真南に建物が(国道の南から西方に)あったので、砂浜はそこから東にひろがっていた。勿論、建物の西側にも砂浜が続いていた。
昔、われわれが二中在学中に年に1度マラソン大会があったが、下級生は学校を中心とした市内をひと回りするもの(コースは忘れてしまったが、平野あたりまで走って学校がゴールだった?)。上級生は須磨の鉢伏山下の松の木の間の空地に集合して、西に向かって明石で折り返し、出発点に帰る相当の長距離であった。殆ど国道2号線に沿って歩道を走った。10,000mと云われていた。挿絵の国道の南側に沿って歩道があった。その上を走った。歩道の海側には1m足らずの側壁(コンクリート製)があった。

手持ちぶさたの生活を送っていたある日の帰途、駅のすぐ南の図の石段を降りようとしてふと下の砂浜に目をやると、後になってそれが貸ボートの接岸用のコンクリート製の台だと判明したが、その時はコンクリート製の台だとしか理解していなかったが、その台の上にエプロン姿の1人の女性(20〜30歳代)がいて、白いハンカチ状の布切れを海水につけて、淋しそうな風情で、シャがんでいた。
私は、これは何か悩み事があって、ひょっとしたら投身自殺かと疑って気にかかった。余り見張りのように立ちつづけられなくて、少し時間をおいて又見ようと思って、松林の中をブラブラ歩いてもう1度覗くと、あの夫人が居なくなっていたので、私はハッと思った。「しまった」と自責の念にも駆られ、誰か相談する人でもと思い、ウロウロしてもう1度見に戻って海岸の所に戻ったところ、何かにぎやかな声が聞こえるので、下を見ると、進駐軍の兵士が数名いて談笑しているが、例の女の姿はないし、一瞬戸惑ったが、兵士達の声と視線から事の次第を見てとった。その上、兵士達の様子から、私の予感が外れていて、例のアレかと分って情けなくなり、その女性の浅はかさに憤懣やるせなかった。

当時は進駐軍の兵士は湊川神社の西南の(中町通?)一画に、沢山のカマボコ兵舎をつくり進駐してきていて、日本女性の、私達にとっては信じられないような変身振りには情けなく思った。結局事の次第はお分かりの通りであって、私は憤懣遣るかたなく、それ以後は舞子で途中下車することはなかった。

その後現地一体の変貌の様子はもの凄く、舞子〜淡路にはすばらしい連絡橋が建設されるし、素晴らしい舞子ビラが建てられ、私も何回となく同窓会等には出席させてもらっているが、あの当時の海岸周辺のたたずまいを熟知している人はさぞ少ないに違いない。
あの事があって以後、海岸まで行くことは一回だけあったが、余りにも変り方がひどくて浦島太郎の心境である。
周りの状況がどう変わろうと、私の口惜しい思い出と憤りの心がいやされることはない。色々と戦前、戦後のあれこれを語り合った、憤慨しあった山内俊一郎先生も亡くなられたし、大変淋しい思いがします。
                               平成21年4月18日

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