《 第10回 小学生時代の思いであれこれ 》                                                                                              2009.05.17
                                                  

私が生まれ育った所は吉田町という。吉田町1丁目から始まり、2丁目、3丁目と西へ進んで金平町、高松町を経て北上して東尻池に至る。当時から市電が走り、高松橋は回転橋で中央部は下を北上し、川崎車両の貯木場藤を経て新川、中之島へ通じる水路(川)が通っていた。
真夏の日中は、この橋を渡って和田岬へ通ずる市電の通っている道路をよく馬車(運搬用)が往来していたが、回転橋があるので橋を越すにはかなりの坂道であった。暑さにうだりながら車を引いて駆け上がる馬の頭には麦藁帽子がかぶらせてあり、坂の手前には馬用の水道栓が設置されていて、そこで水をたっぷりと馬に飲ませる場所があった。
また、高松橋の下に船着場があり、近辺から荷車で運ばれてきた糞尿をまとめて運び、沖合に捨てるための船着場があった。

吉田2丁目〜金平町の北に私達の浜山小学校があり、学校の西には当時、市電の撒水車用の収容場所があり、大きい水道水の補給装置があった。吉田町の電停の南に海水浴場があり、私はいつも仲間と遊んだり、泳いだりして、小学校時代の春夏秋冬を送った。
そのうちで、殆ど毎日のように通っていた一画の所を中心に思い出の数々を語りたい。

吉田町2の電停で降りて海岸に突当たる手前の道の左側に大潮湯と言う、子供にとってはかなり大きい建物があり、中には温泉(一般・家庭風呂)、娯楽場、2階には演芸場があり、毎週土曜の夕方から芝居があり、祖母といっしょによく出かけて行った。大潮湯の南端には海水を沖のほうから引き込んだプール(25m)があり、夏にはそこへ入るのが私達の望みの一つであった(有料)。特に社会人の男(たまには女)の人々が勤めを終り、泳ぐのを羨ましく眺めたものです。

海岸で時々地引網を引き上げるのに出くわすことがあり、子供心にワクワクして見ていた。時たま漁船(小型)の引き上げを、牛を使って巻き上げていたこともあった(この光景は幼児期に見たのが多かった)。プールの南は金網で仕切っていた。この更に南に水上飛行機の格納庫があった。この飛行機は翼に「民潮」とペンキ書きしてあって、複葉でプロペラ機であった。
今から考えると、賞品等の宣伝ビラを上空からまきちらすのによく使われていたようで、主として神戸市の上空を縄張りにしていた。この飛行機はいつも飽きることなく眺めたもので、格納庫から水辺まで運んで海水にフロートがつかったところで、2人(子供の頃ではあったが、お互いに呼び合っているのを聞いている内に、操縦士は藤原、副操縦士は諏訪さんと分った)でプロペラを手で助動しつつ、頃合を見て力を入れて廻し、エンジンがかけられると強烈なガソリンの臭いと強い風が子供心に強く強く焼きついている。
一度2人のうち副操縦士のほうではなかったかと思うが、子供さんをプロペラの事故で亡くされた。エンジンがかかると、200〜300m沖へ助走して、風の向きを見はからって東へ向かう(ことが多かった)と300〜400mぐらいで離水し、旋回して神戸市街の上空へ向かった。

この飛行機が一度西神戸で野田高等女学校の校舎の屋根に誤って馬乗状に乗っかかったことがあり、新聞でも報道された。(このことは、たまたま、私が高槻高校に着任後、同僚の職員でこれを知っている人がいて、わざわざ野田高校へ行って、学校の当事者に話したところ、誰も信用しなかったそうであるが、色々と説明している内にやっと本当だと分ったらしい)。
この操縦士の藤原さんは、大きいオートバイやサイドカーの運転もする人で、毎年、長田神社の秋の祭礼では御輿の先頭をサイドカーに乗って行列を先導していた。ひるには吉田町の開発記念碑のところで御輿の列が長い休憩をしていたと思う。藤原さんの英姿がありありと浮かんできます。

吉田町、金平町どちらかで市電に乗るが、いつも男子中学生は前から、女学生は後から乗車と決まっていた。懐かしい頃が目に浮かんでくる。
私はよく家から徒歩で川崎車両の東を回り、増田製粉の横を北上し、徒歩で登下校したこともあり、時には自転車を利用したこともある。時には東尻池の交差点を通り、マッチの軸とかうすい木片が一面に乾してあるのを横に見ながら高松橋経由で家路についたことも思い出す。

神戸大水害は二中4年のときで、あのときの雨の降り方の激しさ、水量は忘れることなく脳裏にある。一面の水の道で、石の蓋の欠けたところへ足を突っ込んで、顎(あご)の下まではまりこんだ時はもう駄目かと思ったことを忘れられない。学校の下の川は道路スレスレにゴーゴーと流れるし、家財道具、家畜が上流からゴロゴロと流れて行く様はよく思い出す。
ついでの話であるが、室戸台風の直撃に会ったのが中学に入学した年で、台風だから休校なんてなかった時代のこと、よくぞ学校へ着けたものだと、今シミジミと回想している。時代の相違だったんでしょう。
                               平成21年3月29日

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