《 第9回  終戦後の5年間 》                                                                                                2009.05.06
                                                  

昭和20年8月終戦の日を迎え、その後の5年間は、私にとってはまさに浪々の年であった。明石の川崎航空機工業K.K内にあった陸軍航空本部明石出張所に勤務していた私は、いくばくかの退職金とズルチン(合成甘味料)1Kg入りの紙袋を頂いて浪人生活に入った。
何もする当てのない毎日を無意味に暮らすことほど辛いことはないと言うことを、身を持って体験した。同僚の友人達もそれぞれの身の振り方を考え、無聊(ぶりょう)の日を送っているようであった。伝(つて)を頼って就職先を探し求めているようであった。私もあちらこちらと縁故を頼って探したが、見当たらないと焦りが先行した。
私は幸い両親も健在で、差し当ってどうこうと言うこともなかったのは恵まれていた。焦るとワラをもつかむ思いになるものだと実感したことは再三あった。

こんなこともあった。
当時、私は勤務の関係で勤労奉仕に来ていた女学校の生徒達を何人か知っていたが、その父親に国鉄に勤務していた方がおられ、その方の口利きで国鉄の教習所(吹田にあった)の教官になれそうなチャンスがあった。居住していたのが兵庫高校の少し上の方だったので、兵庫−吹田間の国鉄の定期券をもらったりしていたので、全くその気で神戸、大阪などで使わしてもらっていたが、職場がはっきりしない毎日を送っていた。暇をもて余して、姉がいた豊岡方面まで足を伸ばしたことがあった。帰途検察があり、その定期を出したところ、車掌から大目玉をくらい、「教習所の先生がこんなことをして貰うと困ります」となじられた。結局、国鉄への就職は叶わず、更に就職先を見つけることに奔走していた。他の友人も同じであったようで、みんな苦労していた。

そのうち、神戸一中出身で、松山高校で1年下の人に知り合いの人がいたので、その人からの口添えで川崎車両K.Kに職員として採用していただくことができ、ホッとした。
勤め始めると、二中関係の先輩や同級生、なかには明石で同じように航空本部関係にいた神戸一中出身の少尉の人が工員として勤めていることも分ってきた。
車両工場では金属材料の検査、鋳造、錬鉄等々、自分の専攻した学科関係の仕事もあり、別に不足のない職場であったが、当時戦後の混乱が尾を引いたような世相に悩まされていたので、たまたま母校を訪問した時に出会った恩師、姉崎教頭先生からの勧誘・推挙を頂いて母校の教員となり、教育一本とわが道を定めだのが昭和25年である。 

人間の一生、有為転変のこの世を送ってきて、老境のわが身をふり返っている。教育一筋(公立32年、私学28年)、今も現役生活を送らせて頂き無上の喜びをかみしめています。
                                                           平成21年3月29日

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