《 第8回  支那事変の頃の思い出 》                                                                                                2009.04.26
                                                  

松木文雄君のこと(2)

支那事変が拡大しつつあったが、私の耳に松木文雄君からの連絡が入った。「戦傷を負って大阪の陸軍病院に入院中、会いたい」とのことであった。驚いて、とり急ぎ大阪天王寺の陸軍病院(赤十字病院)に入院中の彼を見舞った。

松木大尉の室に入って、上官に当る彼に敬礼した(小生は1階級下の中尉)。途端に「あほ、やめとけ」と彼が言ってくれたのでホッとしたが、彼の左手には痛々しい包帯が巻かれていた。彼の説明によると、北支で偵察機に登場搭乗中、敵機(戦闘機)に遭遇し、交戦するも、戦闘機対偵察機では装備その他の性能では敵すまでもなく、機関銃で左手に負傷、失心状態に近い症状で不時着、やがて近づいて来た敵のゲリラの攻撃で気が付いたが、応戦も叶わず半ばあきらめている時、友軍地上部隊の救援で救助された由。その後応急処置の上内地へ搬送されたとのことで、私が見舞った時点では、左手は既に上膊部の中途から下は切断されていた。

彼は色々と話をしている内に心のゆとりができたのであろうが、私の軍装を見て、長靴がないのを見て、「長靴がないのか、俺のをやろうか」と言ってくれた。当時軍装品が大変不足し始めていたので、私達の将校任官時には革脚絆(きゃはん)が支給されていた。「あったら欲しい」『今ここにはない。実家にある。とりに行くならやろう』「頂きに行くがどこか」『松山だ』。この時、びっくり仰天した。彼の実家が松山とは夢にも思わなかった。彼が二中のときは両親といっしょに明石に住んでいた。

その両親がおられる家は松山の道後の由。改めてよく聞けば、私が高校時代下宿していた同じ町内ではないか。懐かしさと、長靴欲しさにすぐ決心した。

 

勤務先を日欠勤して、懐かしい松山に行ったのであるが、途中、予讃線の列車に乗ってグラマン機の銃撃を受け、九死に一生を得た。松木君のご両親には勿論初対面であったが、松木君が連絡しておいてくれたので、感謝のきわみであった。

その後、同期の友人で、私ほど立派な長靴を履いている人はいなかった。従って、私は心を込めて長靴の保守手入れには念を入れた。(終戦時、記念の写真を撮った)。

彼は退院後、一度小生の下宿先を尋ねて高槻まで来て、一夜を語り明かして上京し、当時の中島飛行機製作所へ就職し、ずっと東京都住まいをしているが、毎年1回は西下し、今も小生宅で1泊あるいは泊している。二中の同窓でいちばん気心の分った親友である。彼と話す話題は古い二中時代の友人のこと、当時の恩師のこと、学校行事のこと等々、すべて二中と関係ある様々のトピックスである。持つべきものは「竹馬の友」。

武陽100年祭に西下を勧めたが、戦傷と後遺症のため涙を呑んで欠席した。


                                                     平成21年3月29日

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