《 第7回  支那事変の頃の思い出 》                                                                                                2009.04.16
                                                  

松木文雄君のこと(1)

27陽会生が二中を卒業したのは昭和14年で、当時の支那事変も拡大する一方で、挙国一致、国難に立ち向かっていた頃である。吾々の4年(か5年)生当時、出征兵士の見送りに国鉄三宮駅へはよく行ったもので、当時、吾々の担任団の先生方の一人である八田藤四郎先生は国鉄三宮駅で見送りに参加されていて、不幸にも群集がプラットホームに溢れたため、線路上に落ちて列車に轢死されたことがあった。陸軍の軍人ばかりでなく、軍馬等も多数徴発され運ばれていた。

27陽会の友人のうちで陸士(陸軍士官学校)、海兵(海軍兵学校)、海機(海軍機関学校)等へ相当数の人が進学し、その中でも「名も千載にかんばし」という名の、卒業生で名誉の戦死をされた方々の思い出の記念の書物に記録されている同期生や沢山の武陽人の方々のほかに、私の同期の人達の中で特に親しくしていた一人の親友、松木文雄君のことをご披露したい。

彼は当時、明石から通学していたが、陸軍予科士官学校を経て陸軍航空士官学校を卒業して北支へ赴任した。戦地へ赴任の途中で、京都で小生に会うため途中下車し、小生の下宿いる所へ連絡してきて二人きりの送別会をした。場所は、下宿している小母さんの紹介で、祇園のとあるお茶屋であった。二人きりの送別会の席に、彼の要望で芸妓、舞妓が同席していた。彼が赴任旅費を全部使って別れの会をしたいとの強い希望で断りきれなかった。2時間余り、別れを惜しんで京都駅へ送りに行った。
当時、戦時中で物資不足の折柄、タクシーは「相乗り」と言って、同方向へ行く人を1台にまとめて運ぶ、いわば相乗りタクシーしかなかった。時刻もかなり遅く、銀閣寺(下宿していた所の近く)方面は2名しかいなかった。
私は当時、京大工学部冶金学科の学生であった。相乗りの客のことなど考えもしなかったが、途中で一寸横顔を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。沢村宏教授という冶金学教室の最古参の教授で、後に工学部長となられた。
途端に心臓が止まりそうになり、先生が住んでおられた永観堂まで「無言の行」を続けざるを得ず、永観堂で下車されて、銀閣寺の下宿迄、無言の行を続けた。あまりにもショックが大きすぎたのである。
松木君は任地へ行けば金は用がないからと言っていたけれども、大散財をさせたのは気の毒であった。


                                                     平成21年3月29日

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