《 第6回  私のタバコ遍歴 》                                                                                                2009.04.06
                                                  

私のタバコ遍歴は、ちょっと変ったものではないかと思っています。かんたんに述べて、参考にして頂けたらと思います。
昔から未成年者は喫煙してはいけないと法律に定められていて、徴兵検査が済まないとだめだと言われてきました。徴兵検査が一つの関門と言える。私は正直にそれを守った。
勿論、それまでに喫煙する者もいたし、不良少年とにらまれた者は何かあるとすぐ指の検査でタバコの脂(やに)の有無を調べられた。有害なニコチンで身体と精神とがむしばまれていくからである。

私は本籍地(姫路市)で徴兵検査を受けた(結果は第一乙種合格であった)。
もうこれでタバコを吸ってもよいのだと思った。旧制高校3年生ぐらいだったと思うが、友人と松山の道後の喫茶店でプカプカ、真似事のようにタバコをふかしていた。店を出ようとしたら、ウエイトレスから、私が本当にタバコを吸っていないと、からかわれた。それから自分なりに変に頑張って、本式に吸ってみようと考えた。
私はそのころ、友人と2人で下宿していて、友人が階下に、私がその2階で住んでいた。友人は奈良県立郡山中学出身の友人(松本肇君)で親友同士であった。2階の机の前の椅子に腰かけて、タバコを本式に吸った。ところが、しばらくして気分が悪く、吐き気もし、意識がもうろうとなって椅子から転がり落ちた。階下の松本君が何事ならんとかけ上がって来て、私を介抱してくれた。そのことがあって以降、徐々にタバコに慣れてきた。
その内に、食後には一服吸わないと食事が終わった気がしない程になった。特に油もの料理の時は尚更である。煙草の銘柄もあるていど、いろいろと変えた。その頃「暖流」という映画が人気があり(佐分利信、徳大寺、水戸光子、高峰三枝子等)、その中で佐分利が「暁」という両切りタバコを吸うのをみて、私も一時は「暁」一辺倒となったこともあり、1日に吸うタバコの本数も1日20本を超えていた。

大学を卒業すると太平洋戦争のさなかで、直ぐ岐阜陸軍航空整備学校へ入隊し、色々の教育を受けた。軍隊で支給されるタバコは誉(ほまれ)と言って、両切りのタバコであった。まき方がゆるいため、軍衣のポケットに入れ演習するとタバコの葉が大量にぬけて、さんざんな状態のタバコとなっていて、それを吸うのには苦労した。軍隊での教育を受けて、任務先への転属後は、充分とは言えなかったが喫煙を続けていた。
終戦後はしばらく浪人生活、サラリーマン(川崎車両KK)をして、母校へ行ってみたら姉崎教頭先生がおられ、「君、母校へ来ないか」と声をかけられ、当時は免許なしだったが、勤務をするようになって後に免許支給交付の手続きをした。物資不足の時代とは言え、タバコは続けていた。年齢は28歳、2児の父親であった。

1960年頃の休日に、たまたま家でタバコの害についてのテレビの放映があった。
家内ともども見ていて、ハツカネズミを用いてタバコの有害なことを示す実験が終わるや否や、家内から強く「タバコをやめる」ように勧められ、そのまま「じゃやめよう」と即座に決心し、禁煙に踏み切った。以来全くの禁煙生活である。
最近、肺癌、心臓病をはじめ、さまざまな成人病の原因の一つにタバコが挙げられているが、私も確かにそうだと確信している。私が担任したある陽会の卒業生で、柔道部に所属していた人が亡くなって、その奥さんから「大のタバコ好きでしたが、とうとう「肺癌」で亡くなりました」との知らせを受けて、淋しい思いをしました。享年61歳の男です。

禁煙が無理でも節煙になるように。「今更・・・・・」と言わずに、素直に一考を。


                                                     平成21年3月13日

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