《 第5回 寮生活中の寸話-2》                                                                                               2009.03.27
                                                  

松山高校で思い出に残るもの
 
1.

学校の講堂(章光堂)
私達が入学式をした建物で、その時、さすがに高校の講堂だと驚いた。一風変っていると思った。
戦時中B29の空襲で別紙の如き大騒動があったそうで、幸い類焼をまぬかれたとのこと、同窓会阪神支部の会報ではじめて知った。この時の生徒の一人は、私が高槻高校の校長として勤めているとき、数学の教員でいた人で、その人の退職後分かったので、ゆっくりとその話を聞けなかったのは残念であった。私の6年後輩にあたる。
 

2.

プール
校地の中央、グラウンドのはずれに当たる所に金網で囲ったプールがあった。もともと校外の田圃の潅水用の小川の水が流れ込んでくる野生的なもので、プールの中には、アメンボウ、水スマシ、ゲンゴロウ、水カマキリ等の昆虫が雑居しているものであった。水泳部の連中はいつも泳いでいるし、私もよく泳いだものである。公式の試合は道後公園にある正式のプールで行われていたが、遠いので練習はこのプールで行われていた。
私のクラスメートで、奈良県立郡山中卒の親友から、素質の良い水泳選手がいたら知らせてほしいと言われていたので、たまたま二中28陽会の渡辺二郎(後に吉川と改姓)氏が松山へ来ると聞いて、入試に合格、晴れて入学し、短距離の名選手として鳴らした。ところが、毎年インターハイを応援に京大プールへ行っていたが、渡辺君ほどの名選手でもいつも2位に甘んじざるを得なかった好敵手がいて、その名を阿座上(あざがみ)と言い、まるで水上を走るが如く、どうしても渡辺君でも勝てなかった。
ところが、私が金光大阪の初代校長をやめて高槻高校の2、3年生に化学を教えていた(非常勤講師として)とき、同姓の生徒がいたので確かめると、「僕の伯父です」とのこと、びっくりしたことがある。三高の有名選手であった。
悪いことはできないと実感した。その伯父さんに会いたいなと言ったところ、もう亡くなりましたとのことで、残念でたまらなかった。高槻の教えた卒業生は毎年、年賀状を交換している。
 

3.

インターハイ
私は京都に親戚があったので、松山在学中は毎年の如くインターハイを応援に出かけた。大抵は水泳と柔道である。雰囲気としては、昔のインターハイは強く印象に残っている。水泳は京大プールで各校がプールの外に校旗をはためかしていた。今も忘れないが阿座上君には全く脱帽した。
柔道は京都の武徳殿で、旧制高校の試合は殆ど寝技の試合で、開始から勝負のつく迄立技は殆ど見られなかった。「押えこみ」か「締め技」かのどちらかで勝負がついた。
 

4.

外人教師
松山在校中、語学の外人教師にアメリカ人(ルイス・ウイリアム・パーセル)と独逸人(ハンス・ベルナー)がそれぞれ夫人同伴で在留していた。
アメリカ人は校地の東北隅にある洋館に住んでいたので、ある夕方、一人で勉強のつもりで訪ねていったことがある。小学生の頃、いつも海岸で座って水上飛行機の離水の様子を見ていたのでその思い出を話したが、riseelevateの使い方で大恥をかいた。日米開戦のほんの前だと思うが、忽然としていなくなった。間もなく開戦。
ドイツ人夫妻は校外に居住していた。当時、日独伊防共協定を締結していたので、見かける外人はドイツ人かイタリア人が」多かった。
私はドイツ語が好きでよく勉強したと自負している
大学へ入学した冬に、同じ学部学科(京大工学部冶金学科)の友人10名近くと兵庫県の神鍋高原へ出かけた。友人の一人が、ワックスがなくなった、と山小屋で休んでいたとき、外人が4〜5人もその小屋にいたので、みんながあの外人に頼んだらよいと提案して、おそらくドイツ人かイタリア人だろうと言うことで、では誰が?となり、私が指名された。ドイツ語で「ワックスを貸してください」と思いつくまま(おそるおそる?)言ったら、「はい、どうぞ」と自分のものをさし出してくれたので私は面目を施し、後々まで話の種にされた。
 

                            平成21年2月19日 

riseelevate
菅沼先生はriseelevateの使い方をどのように間違われたのか、触れておられません(私も特にお聞きしていません)。
rise
elevate、英語に堪能な方はすぐに理解されたかも知れませんが、先生が英語でなんと言われたのか、水上飛行機の離水の様子を思い描きながら想像するのも一興かと思います。(水島記)

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