《 第2回 神戸と松山往来のこと(船と国鉄)》                                                                                               2009.02.26
                                                  

二中を卒業したのは昭和14年3月で、浪人しないで旧制松山高等学校理科甲類に入学した。ただし、昔は4年終了段階で旧制高校を受験できた。それで、4年終了時に姫路高等学校を受験したが不合格であった。
松山高等学校を目指したのは別紙の通りである(註:恩師からの便り、偶感2、厳父慈母 に書いています)。
別に迷うこともなく志望した。松山の時代には、1年の時は夏休み、春休み、冬休みと、専ら大阪商船(後の関西汽船)を利用し、中突堤から乗船し、松山の高浜港で下船し、松山の市内に入っていた。然し1度、船が高松港を出て郊外に出る際、接触事故を起こして以降、船を敬遠して国鉄を利用することが多くなり、神戸〜宇野〜高松〜松山へと変更した。
国鉄は一旦乗ると、あまりウロウロできないが、船は船内外をウロウロする時間があり、時には思いがけない面白いことにも出くわして楽しいこともあった。然し、船も我々にとっては厄介なこともあった。と言うのは乗船し、荷物の整理をし終えた頃に船のボーイさんが社名入りの毛布を1枚ずつ客に配る。夏は暑いので毛布はいらないし、冬は昔の高校生のシンボルのマントがあるので、吾々にはなくてもすんだが、ボーイさんは社の業務として毛布の代金を請求するのでよく一悶着あった。
国鉄を利用する場合にもいろいろと問題もあった。
山陽本線で神戸〜岡山〜宇野へ行く。宇野から宇高連絡線で高松へ、高松から予讃線で松山へと、かなり時間がかかった。
然し、沿線の光景を眺めている楽しみも味わえた。金光という駅も知らず知らずに覚えてしまったが、私が兵庫県の公立高校を退職後、高槻に新設された金光第一高校(今の金光大阪)の初代校長になった時、2、3度お詣りしたのも奇縁である。又、岡山から宇野へ行く途中に畳表に使う藺草(いぐさ)を沢山栽培している畠が続き、目を楽しませてくれる美しいみどりの景色は忘れられない。
汽車が宇野へ着くと、乗客は身の回りの荷物を手に手に持ったり、背負ったりして、かけ足で高松行きの連絡線へと急いだものである。帰途も同じで、乗客にとっては大変しんどい駅であった。吾々は朴歯(ほうば)の高下駄を履いていたので、走りもせず、カラコロと歩いていった。宇高連絡線には、当時の人々は、それぞれの思い出がある筈である。
予讃線は単線が多く、時間がかかった。戦時中に1度、神戸〜松山を往復する時、グラマン戦闘機の来襲を受け、列車の中で全くヒヤヒヤしたことが忘れられない思い出である。
今日のように自動車があり、楽々と本土と四国の連絡橋を使って短時間で往来できるのは、私には夢のようである。

(註)理科・文科甲類  第1外国語が英語、第2外国語がドイツ語
   理科・文科乙類  上と逆
   丙類がある学校には少ないが(ドイツ語の代わりに)フランス語が入る

                               平成21年2月13日

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