第1回   『私の忘れ得ぬ先生』                                                                                                菅沼 常生
                                                    (写真をクリックすると拡大)

「袖擦りあうも他生の縁」とよく言われるが、人生における出合いとは、まことに奇妙なものであると思う。
全く授業をしていただいたこともなく、言葉すら交わしたこともなく、たった二度、時間にして五時間ほどの間、出合っただけの先生と、一方、何年間かご指導していただいた三人の先生をいっしょにした、四人の先生が、私にとっては忘れることのできない先生である。
いずれも、今は故人となられた方々ばかりである。(写真は昭和9年の神戸二中の正門)

昭和九年三月下旬、県立第二神戸中学校(現在県立兵庫高校)の入学試験の第一日目のことである。当時の入試は学科試験、口頭試問、体操実技について二日間行われた。
ちかごろ、親の過保護が、とやかく言われているが、私は親にかまわれたくない方で、中学校を受験するときから、入試の付き添いは、いっさいしてもらわないできたが、このことが、次に述べる事件の原因の一つでもあった。
第一日目、午前の学科試験の後、午後、口頭試問が行われることになっていた。厳正を期すため、各試験場ごとに、受験生は缶詰にされるため、たぶん注意事項の中で、昼食を携行するようにということは知らされていたのであろうが私にとっては、知らぬが仏である。他の受験生はみんな弁当やパンを食べている。待たされるにつれ、空腹感が加速度的に増してきて、とてもたまらなく、自分が哀れに思えてきた。ふと見ると、教壇上の、年長で半白の口ヒゲをたくわえた先生は、椅子の上で舟を漕いでおられる。もう一人の若い先生はと見ると、教室の後の隅でおなじように居眠りである。なにぶん、小学校を卒業したばかりの子供である。
空腹に耐えかねて、本能の命ずるまま、スルスルと室を抜け出して、コの字形になった校舎にかこまれた中庭の桜並木の間を通っている、中央がすりへった赤煉瓦を敷いた道を、小走りに雨天体操場にあるパン売場へと急いだ。運が悪かったといおうか、厳重な入試だったと言おうか、各教室に二人ずつの監督の先生以外に、遊撃監督とも言うべき、ベテランの先生が校内をパトロールしておられた。私を見て、不審に思われたのだろう声をかけられた。             (写真は当時の校舎配置図)
途端に、夢中で駆け出した。「待て」と絶叫しながら追っかけてこられた。三度右折して、約百メートルくらいの距離をどんどん逃げながらも、足はひとりでに、パン売場の方へ向いていた。大いそぎでパンを買ったところへフーフー言いながら追いついてこられた先生は、口ヒゲをこすりながら、「受験票を出して」と言われた。さしだした受験票をとりあげると、「もう明日は来なくてもいい」と言われた。
私はそのまま帰った。この先生は白根俊一先生で,神戸二中の名物先生で、卒業生なら誰一人知らぬ者がなかった。
この先生に、江戸っ子弁で言われると、子供心に突き刺さるようにきつくこたえた。
その日、家へ帰ってから多少不安ではあったが、母にも言わずにいた。日が暮れかけたころ、小学校から小使さんが来て、何やらゴソゴソと母と話していた。今まで学校から呼び出されるようなこともなかったので、母は何の心の準備もなしに出かけて行った。
私自身は別段気になって仕方がないと言うほどでもなかったけれど、何となしに悪い予感がした。学校から帰ってきた母の手に、とりあげられた受験票があった。
「あんた えらいことをしたな」と言われて、平身低頭した。くわしい事情も分からないまま翌日も受験したが、特に悪いことをしたという罪悪感も感じなかったのは、子供心の無邪気さがなせる業だったのだろう。
幸い合格できたが、その後いくらかたって、小学校の担任の山脇又吉先生から、くわしい事情が母に話され、それを聞いたとき、事の重大さを知った。その事情はこうである。

監督の先生は、年長の方が、高田権兵衛という先生で、有名な高田屋嘉兵衛(1769〜1827、江戸後期の廻船業者、淡路の人で、蝦夷貿易に活躍し、択捉島航路をひらき、漁場を設置した)の孫にあたり(註1)、度のきつい眼鏡をかけ、古武士風のむっつりした博物(今の生物と地学を合わせたような学科)の先生で、若い方が、田村毅という、パンという綽名のとおり、上円下方型の、食パンそっくりの形の顔をされた、やはり博物の先生だった。この先生には、卒業まで、いろいろ教わったが、大東亜戦争でビルマで戦死された、が、その遺児を(註2)、二十年ほどたって私が、県立兵庫高校で教えたという因縁がある。小学校の担任の山脇先生は、私という子供のあやまちを許してやってほしいという条件で、転勤させてほしいと校長に申し出られ、中学校側でも、高田先生が、引責辞職された。
               (写真は入学許可当日・前列左から3人目が菅沼先生)

当時の教育界のきびしさが分かる。田村先生の責任は問はれなかった。高田先生には、入試の日、合格者が招集された日しか、お目にかからなかったわけであるが、もっとも鮮明に記憶に残っている先生で、私のために、そんなことになられたのを知って、心から申訳ない気がした。

そのような事情も、入学早々には全く知らなかった。中学校に入ると、科目ごとに先生がちがうのが物珍しく、各時間ごとに、どんな先生が来られるか楽しみにしていた。
代数の時間に来られたのが、なんと白根先生で、あの追いかけられた日のことが気にかかって、蛇ににらまれた蛙とでもいうべきか、その時から授業をもっていただいた二年間というものは、授業中はまるで針のむしろに座っているようで、宿題でも忘れようものなら、「ちょっとノートもっておいで」と、例のアクセントのきつい、きめつけ方で叱られるので、泣いても泣ききれない思いであった。案の定、成績はきわめて悪かった。よく先生によって、学科の好き嫌いができるといわれるのを聞くが、そんなことはない。
生徒の気持ちと努力次第だと思いたいが、私の場合に限って、例外だと言わせてもらいたい。
中学校三年当時、二学期末考査のある日、五年生の剣道部主将が、カンニングしたのを、監督の白根先生に見つかって、その当時完成後まだ日の浅い阪神電鉄の地下の春日野道駅あたりで、電車に飛び込み自殺し、新聞紙上に事件が報道され、先生も青白い顔をしておられたというようなこともあった。               (写真は神戸二中講堂)
戦時中、学校の宿直室に住んでおられた先生が、神戸大空襲の翌日、まっくろにすすけた顔で、着のみ着のままで、まるで放心状態で立っておられるのを、車中からお見かけしたことがあったが、その後、私が復員し、昭和二十五年母校の化学の教師として奉職したとき、もうやめておられた先生が、早速化学準備室へ来られて、「帰ってきたんだってね」と言われた時には、「先生のお蔭です」と心の中で言いながらも、ご恩に感謝するより、正直なところ、てれくさいという気持ちの方が強かった。先生は、卒業生のことについては、どんな些細なマスコミ記事や、写真でもスクラップブックに貼り、まるで卒業生に関する生き辞引きのようにいわれていたが、今年(註3)他界された。失礼ながら綽名通りのお顔と共に、わたしには終生忘れることの出来ない先生である。

山脇先生は、小学校六年の担任で、その熱心なことは私に思い出されるのが、口ヒゲを蓄えた先生が、毎日放課後、教室の前の先生の机に向かって、パイプをくわえたまま、煙が目に入るのを、目を細めてこらえながら、いつもテストを、ていねいに添削されているお姿以外にないことからも、分かると思う。六年の臨海学校で、先生にてんま船にのせられて、沖の方で舟から海中に投げこまれ、必死にもがいている鼻先へ、竹竿をつき出され、助けあげられたが、この時以来、私は泳げるようになった。今でも私の好きなスポーツの一つは水泳であるが、この点でも、生涯忘れられない先生である。先生は転勤され、後に神戸市立川池小学校在任中に他界された。

以上のとおり、私の忘れ得ない四人の先生について述べたのであるが、もしあの時不合格であったとしたら、私の運命も、今とずい分変わっていたかもしれない。今、私は四人の先生方のあたたかい気持ちがよく分かり、ご迷惑をおかけしたことを、心から申訳なく思うような年になった。お詫びできるものなら、お逢いしてお詫びしたいと思いだすと、矢も盾もたまらなくなってくる。当時のことを思い出すにつけ、心は幼かりし昔に帰るのが、私にとってはせめてもの心のなぐさみである。
 

(註1)

27陽会の友人(淡路出身)より違うとの指摘あり、孫ではないとのこと

(註2)

不思議な縁のつながり、現在勤務校で非常勤講師をおねがいしている。大阪府立高校教諭を定年退職後、44陽会生、生物、カウンセリング 
他にもう一人、48陽会生も非常勤講師として来てもらっている、滝内明(旧姓 長田)英語

(註3)

この欄を書いたのは昭和47年、県立北条高校在職中

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