#72《私の歴史散歩『尼崎の残念様』》              
                                      
                                                             2011.11.20
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歴史散歩の残念様(さん)シリーズの最後として尼崎の残念様を紹介したい。
この残念様は堺や三宮の残念様とはほぼ同じ幕末のころの残念様であるが、いつのまにか神様・仏様になってしまったという、一風変わった残念様である。
 

* * 大物浦 * *

この残念様の墓は阪神電鉄の大物(だいもつ)駅を降りたところにある。
この“大物”という地名は奈良時代の文献にも見られるというから相当古い地名である。また、この駅の浜側には尼崎では一番古く、非常に由緒ある大物主神社(おおものぬしじんじゃ)があるので、少し寄り道することにした。

今はこの辺りは埋め立てられて面影は全くないが、昔は、この神社は浜辺に面しており、摂津の国大物浦と呼ばれていて船が出入りしていた。京から神崎川を利用して物資が運ばれてきており、大物浦は交通の要衝であった。
この大物浦の沖合の海上は、風や潮流を遮る山や島はなく、大風になれば荒波となり海の難所として知られていた。そこで航海安全を願って、海の神でもある大物主を祭神とする大物主神社が建立されたと思われる。
 

* * *

義経記に、この“大物浦沖”で義経が遭難したことが出てくる。 
源義経は1185年3月壇ノ浦で平氏を滅亡させた後、兄頼朝と不仲となり、幕府より追捕される身となった。この追捕から逃れるため、同年11月、200騎ほどの手勢を引き連れて、大物浦から船に乗って西国方面へ向かったが、突然の暴風のため遭難して部下の大部分は四散してしまった。

義経自身も、わずかな従者と共に、かろうじて大阪付近にたどりつき、そこから吉野方面へ逃れた。(これより、北陸道を経て奥州平泉まで逃げ、そこで最後を遂げた)。
この大物より船で脱出するまで、この神社付近の民家に身を潜めていたと伝えられている。
この神社には義経・弁慶の隠家跡という石碑と謡曲「船弁慶」のゆかりの地であることを示した駒札があった。
 

* * 禁門の変 * *

尼崎の残念さんの墓は、大物駅北側の県立尼崎病院裏側の大物公園に隣接した共同墓地の中にある。墓の主は山本文之助鑑光という長州藩の下級武士(足軽)である。

幕末、尊攘派の先鋒として京都で権勢を誇っていた長州藩は1863年(文久3年)の8月18日の政変より、一瞬のうちに京都における地位を失った。翌年(1864年)失地回復のため、武力を背景にして嘆願を求める急進派が京都になだれこんで、御所を守る薩摩藩と会津藩の軍勢と蛤御門の前で激突し敗退した。この戦いで、長州藩派は久坂玄端ら多数の有能な藩士を失った。

山本文之助はこの戦いに銃卒として参戦した。戦いは敗れて戦場の京都を脱出することには成功したが、西国街道から神崎川を南下し、大物あたりにたどり着いたところで、警備していた尼崎藩の役人に捕えられ牢に入れられた。
牢の中で「残念・残念」と叫びながら自害して果てた。(享年29歳)
 

* * 信仰の対象として崇められた残念さん * *

それから不思議なことがおきた。山本文之助の墓にお参りするものが絶えないのである。

それは、彼が自決したとき遺品の中に書き置きがあり、それには『残念で口惜しい、もし口惜しいことがあれば自分の墓に参れば一つだけ願いをかなえてあげる』とあったからである。それが大阪町人に口コミで伝わり、不治の病の人、商売繁盛、博徒の者などが長蛇の列をなして参詣しにきて、彼の墓は“残念さんの墓”と呼ばれるようになった。
余りにもおびただしい参詣者の行列に見かねた大阪奉行は、参道の橋を壊すなどして参詣を禁じたが、それでも参詣する者は絶えることはなかった。

今日でも、不治の病の人(県立病院に隣接しているのが妙であるが)、受験期の合格祈願、最近では就活期の就職祈願などで、お参りする人が絶えないという。
 

☆  ☆  ☆

私は年に一度、大金を手にする夢を願って、宝くじの年末ジャンボを買い、またJRAの有馬記念の馬券を購入しているが、昨年も又スーザン・ボイル(夢やぶれて)になった。今年の暮れは宝くじ券と馬券を購入したら、それらを持ってここにお参りに来ようと思っている。

(終わり)

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