#70《神戸三宮の残念様(神戸事件:その18)》              
                                      
                                                             2011.04.10
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あとがき

* * 箝口令 * *

瀧善三郎が自決した直後、新政府は備前藩に対して、次のような箝(かん)口令を出した。

「国の内外に心配なことが同時に起こっている時で、天皇も心痛なされた。気の毒だが切腹という処置になった。ここでとやかく議論が沸騰すれば、その身も日置家も、備前藩、ひいては国家の安危にもなるゆえに鎮静にするよう、御百姓共へも寄々申しさとし鎮静方を油断なくしてほしい」(要約)

この事件の真相が諸藩に知れると、発足まもない新政府の弱腰外交をたたかれることになる。そこで、真相を知っている備前岡山藩に対して、これは天皇の言葉であるということにして、この事件を口外しないよう箝口令を出した。
備前岡山では、この箝口令によって、神戸事件は口にも筆にもできないタブーとなった。如何に国の外交政策上やむをえないことだったとは言え、不当な処刑で人間ひとりの尊い命を犠牲にしたのである。備前岡山藩からして見ると、こちらには何ら非は無いのに有能な藩士一人を切腹させたことになり、正に踏んだり蹴ったりである。彼の家族、同僚、彼を慕う者からすると非常に悔しい思いだったに違いない。
 

* * *

また、我国の公式記録も新政府の都合の良いように改竄されているため、この事件は誤って後世に伝えられるようになった。

例えば、
・兵庫県史では行列を供割(横切り)したのは、仏兵、アメリカ兵、イギリス兵の3カ国の兵隊と誤って記載されている。(兵庫県史 第5巻 第3章:兵庫県庁発行)
・政治の中枢にいた松平慶永(春岳)も日記の中で[岡山藩仏人を暗殺す]と記載されており、大隈重信は著書の中で「備前士卒が英国将校を殺傷し、家老日置が切腹によって事件は落着した」と記述されている。 政権中枢にいた者ですら、この事件の事実関係を把握していなかったようである。
・さらに、作家の島崎藤村は小説[夜明け前]の中で、「英兵3名が列を横切ろうとしたため、藩兵が怒り、英兵一名を斃し、2名を傷つけた」と書いている。

このように、政府が事実関係を正確に知らせていないために誤って後世に伝えられており、いかに神戸事件が軽んじられていたかを示している。
折角、命を捧げて国難を救った善三郎からすると全くの無駄死にであり、遺族の方が気の毒でならない。
 

* * 伊藤俊介 * *

伊藤俊介(後の博文)は長州馬関(下関)から船に乗り、神戸に着いて遭遇したこの事件に深い関わりをもち、新政府にとっての初めての国際問題というべき、この事件を解決させたことで新政府中枢に覚えられ、また英国公使パークスの信頼を得て、弱冠27歳で初代の兵庫県知事に任命された。その後は、ご存知のように、トントン拍子に出世して宰相にまでなった。
彼は事件のことを一番知っている人物であるが、敢えて事件について触れるのを避けているようである。彼にするとこの事件は後味の悪いものであったのかも知れない。
 

* * *

事件後、すぐにパークスに会って彼の逆鱗に触れ、彼の言葉を鵜呑みにして、数日以内に解決してみせると約束した。すぐに新政府に事件のことでパークスが激怒していることを報告し、備前藩の処罰なしにこの事件を解決する方法はないという筋書きで事を進めていった。
その後、ことの真相(備前藩に非は無い)ことを知るにつれ、彼の人情味ある性格が目覚めて、助命運動するが、ときすでに遅く処刑は予定とおり執行された。パークスに会ったときに、事実関係を把握してから交渉すれば展開は変わっていたのかも知れない。

その伊藤博文ついては、神戸の町と港を見下ろすように大倉山公園に銅像(戦時中供出されて今は台座しかない)が建ち、横浜には横浜開港に関係して犠牲となった井伊直弼の銅像がたった。しかし、同じように身を捧げて国難を救った善三郎については、犯罪者として処刑されたからであろうか、国は善三郎に対して銅像は無論のこと顕彰すらしなかった。
因みに、伊藤は県知事になってから版籍奉還の急進派と呼ばれて反対派から激しい反発を受け、吾が身に危険が迫ると、さっさと辞表をだして東京に移った。県知事の在任期間わずか11ヶ月余、神戸在住は一年半程度で、私が調べた限りにおいては、我々が思っているほどには地元神戸に貢献はしていない。
 

* * 徳川道 * *

折角、幕府兵庫奉行の柴田剛中が外国人とのトラブルを避けるために数万両をかけて造った西国街道迂回路(バイパス)(正式名:西国往還道付替)を、三番隊の日置隊はこれを利用せず事件となったが、そのあとの四番隊(本隊)は、三番隊が事件を起こしたことを知り、トラブルを避けるためこの迂回路を利用している。
山田村郷誌に、突然武者姿の侍が数百人が現れて、宿を提供してほしいと言われてびっくりし、「恐ろしかりし鎧武者600人突如現る…」とその時の様子が記録されている。

これが記録に残る迂回路利用の唯一のものとなっている。以後、北野に迂回路ができてからはこの迂回路は利用されなかった。
明治に入ってからは、この迂回路は“徳川道”と呼ばれ、ハイキングコースとなって市民に親しまれている。
 

* * 通商条約と兵庫開港 * *

この事件の背景には安政の五カ国条約と呼ばれている通商条約に、兵庫開港が盛り込まれたことが大きく関係している。同時に神戸の発展の原点はこの条約と兵庫開港にあるので、これを49陽会の方にも知って欲しいとの思いから、少し詳しくその経緯を説明してきた。

* * *

米国公使ハリスは幕府との通商条約交渉の段階で、近畿の開港地は、大商業都市の大阪開港か、もしくは大阪、京に近い堺港の開港を強く望んでいた。堺港については、南蛮貿易のため外国へ開港されていたのを聞いていたからである。
しかし、攘夷思想が強くまる中、堺には陵墓が多いこともあり、幕府は京より遠い兵庫開港を提案し、これが受け入れられ、兵庫開港が条約に盛り込まれた。
ただし、兵庫は堺より京より遠いとは言え、横浜、長崎などの開港予定地よりはるかに京に近く、このため攘夷思想の強い朝廷より勅許がなかなか得られなかった。また、この兵庫開港が旧幕府の佐幕派と倒幕派(薩長)の争点となり、開港が大幅に遅れた。そして倒幕派は兵庫開港日を倒幕決行日と定めていたために、兵庫開港と同時に政変となり、王政復古、戊辰戦争と目まぐるしく、世の中は展開していった。

国内の騒動に身の危険を感じた外国人達も巻き込み、正に世の中がごたごたしていた最中に神戸事件が起きたので、この事件を語るときに、その背景にある通商条約と兵庫開港問題をどうしても説明しておく必要があった。
 

* * *

不平等条約といわれた通商条約であるが、この条約に兵庫開港が盛り込まれたことで、神戸は開港後、国際的な貿易港として大発展を遂げたので、この条約が神戸発展の礎となっており、我々神戸の人にとっては、この条約はプラスになったといえるのかも知れない。

さらに、外人居留地ができ、ここは治外法権という我国には裁判権が無いなど負の面があるが、ここでは西洋流の街の区割りが行われ、国内では類を見ないぐらい美しい街をプラスの面として引き継いだ。

大丸西側の鯉川筋から市役所前の生田筋に囲まれた居留地の街並みについての記事があり、外国人もその美しい街並みを絶賛している。

THE FAR EAST 1871(明治4年)
「神戸は確かに美しく、東洋における居留地としてもっとも良く設計されている。広々とした清潔な街路、十分な歩道、美しい背後の丘や湾内の輝くさざなみ、そして小奇麗で心地の良い建築は全て目新しく、魅力に満ち溢れている」兵庫県の歴史(小川出版)

道は車道と歩道に区別され、ガス灯がつき、居留地の周辺には西洋人相手の肉屋(大井肉店:明治4年開業)、洋菓子店、コーヒーショップなど、今の神戸を代表するハイカラな店が次々とできた。
かつて、大雨になると生田川や背後の禿山から流れてくる土砂で一面覆われ、とても人が住むところではないといわれた寒村の神戸村が、外国人の手で美しい街にしてもらって、明治32年にそっくりそのまま返還され、現在旧居留地と呼ばれるオフィス街として名を残している。
 

* * *

さらに、この条約は以外なものも残した。
通商条約で規定されている開港地は神戸ではなく兵庫港であるのと同様に、横浜港も条約には規定されておらず、江戸に近い神奈川港であった。しかし、神奈川は東海道という交通量の多いところに面しており、幕府はこれを避けようと寒村の横浜で開港することで外国側に提案したが、外国側は横浜に建設される港や居留地が長崎の出島みたいに、外国人の行動範囲が制限され、不自由で孤立した監獄のような町、港になるのではないかと懸念して反対した。
しかしながら、幕府は外国側の反対意見を無視し、強硬に反対していたパリスが帰国している間に横浜に勝手に開発を進めてしまった。このことは横浜開港後も諸外国側から条約違反というクレームが残り、さらに外国側も本国にどのようにこれを説明すればよいかなどの問題が懸案として残ったままでいた。

明治になって廃藩置県の時、それでは神奈川、兵庫を県(Prefecture)にし、横浜、神戸を市(City)にすれば、条約との整合性がとれて、この問題は一挙に解決できるということになった。新政府内にも、なかなかの知恵者がいた者である。
かくして、相模国神奈川沖、摂津国兵庫津とよばれて、単なる船泊まり、錨地名にすぎなかった地名が神奈川県、兵庫県という、飛び級で県名へと格上げされた。
もし、この不平等条約で兵庫開港が規定されていなければ(もし開港地が大阪港か堺港に規定されていたら)、吾が母校の名は今ごろ摂津高校と呼ばれていたのかもしれない。
 

* * *

上述したように、今の神戸の発展の歴史は、不平等条約に兵庫開港が盛り込まれたことからスタートして、その後の開港(神戸)で飛躍的に発展を遂げてきたことにあると言える。
その発展の歴史の中で、開港後まもなく神戸の町が外国兵により占領されるという一大事件があり、それをたった一人の備前藩士が身を捧げて解決したということも、決して忘れてはならないと思う。
 

* * 顕彰碑秘話 * *

神戸において瀧善三郎を偲ぶ史跡としいては、三宮神社にある「史蹟神戸事件発生の地」と刻まれた石碑と碑文の他に能福寺に立派な顕彰碑がある。この顕彰碑はもともと善三郎が切腹した永福寺にあったが、これがどうして能福寺にあるかという秘話と同時に、善三郎が如何に当時の兵庫村の住民や現在の兵庫区の住民に慕われていたかを語るエピソードを紹介したい。
 

* * *

兵庫の大仏、或いは平清盛公墓がある場所として有名な能福寺に行くと、清盛公墓の隣に瀧善三郎正信と刻まれた、お墓の形をした立派な石碑がある。

昔の写真をみると、この石碑はここに移設したときの移設費の寄進者の名が刻まれた玉垣で囲まれていたが、今は神明町と浩美町の自治会の二つを除いて取り払われている。

その取り払われた玉垣が裏に並べられていて、この中に寄進者の名前で“浜口みね”と刻まれた大きな玉垣を見つけることができる。

この能福寺に顕彰碑が移されてきたのは、その浜口みねさん(旧姓:絵川さん、明治11年生まれ)が、道端で見捨てられていた顕彰碑と偶然に出会ったときから始まる。
 

* * *

順を追って説明したい。

神戸事件が起きた慶応4年2月、当時兵庫村の寺総代であった永福寺で、偉いお侍さんが切腹するということになって、村中大騒ぎになった。
当日護送されてくる偉い侍さんを見たいものと村人総出で見届けに行った。村人はご護送されてくる瀧善三郎の姿を各自しっかりと目に焼き付けた。
その中にみねさんの母親の「絵川みちさん」もいて、毅然として気品高い瀧善三郎の英姿をその後いつまでも忘れることができなかった。

毅然として死に臨み、一身を捧げて国を救い、神戸の町を救った瀧善三郎の行動に感激し、やがて村人たちが衆議一決、善三郎が切腹した永福寺に慰霊の木碑をたてて村人こぞって手厚くお祭りしようということになった。それが昭和8年に、今日の立派な石碑の「瀧善三郎正信碑」に改まった。 
明治43年に、みねさんの母親の絵川みちさんは58歳で亡くなったが、みねさんは生前に何度も母親のみちさんから善三郎のことを聞いていた。やがて、みねさんは谷口家に嫁いで兵庫を離れていった。
 

* * *

昭和20年の神戸大空襲で南仲町あった永福寺は焼失し、以後再建されず廃寺となった。
その跡に、[かねてつ]という名の食品加工会社の敷地となり、この工場前に顕彰碑はポツンと取り残された。
顕彰碑の墓のような形状から誰かの墓だろうというぐらい、見捨てられてしまっていて、顕彰碑に刻まれている瀧善三郎正信の名前すら知るものはいなくなっていた。
 

* * *

昭和24年、この敷地の前の神明町に浜口源次さんという浜口水産株式会社の社長さんが偶然移転してきた。 浜口源次さんは浜口(旧姓絵川)みねさんの息子さんに当る方である。

浜口源次さんは、浜口さん宅の筋向いで工場前にポツンとある一基のお墓のような石碑に気づいて奇妙に思った。その碑がいつも清められ、お花やお供えものが絶えず祭られているからである。一体誰がお参りしているのだろうかと、朝から観察してみると驚いた。
母親の浜口みねさんが毎日清めてお参りしていたのである。(もちろん、浜口源次さんは、この時点では石碑に刻まれている瀧善三郎はどのような者であるかは全く知らなかった。)

母親に尋ねると一部始終を息子の源次さんに話した。
みねさんの話では、生前母親のみちさん(源次さんの祖母)から何度も瀧善三郎という偉い侍のことを聞かされていた。その善三郎の石碑が偶然越してきた家の前にあるのを見て驚いた。それが道端に放り出されているかっこうになっていて、しかも薄汚れており悲しかった。これも何かの縁ということで毎日清めて供養してきたというのである。
 

* * *
 

その話を聞いて源次さんは感動し、このままでは兵庫住民から慕われていた偉い侍の瀧善三郎の石碑は永久に見捨てられてしまう。それらしい場所に移そうと、神明町自治会長に瀧善三郎のことを説明して相談すると、大いに感激され、早速移転費用の寄付を募ることになり、移転先は近くにある能福寺に頼むことにした。さらに、能福寺のある浩美町(現、北逆瀬川町)自治会長にも頼んで快く賛同してもらった。 また寺側も石碑が幸いなことに墓ではなく記念碑なので問題なく引き受けてくれた。
昭和44年6月9日、丁度明治100年を迎えた記念行事として能福寺の境内に移された。
こうして、兵庫の住民から慕われた善三郎の顕彰碑を今日能福寺でみることができるのである。
(なお、滝善三郎の墓は岡山県御津町の墓地にあり、さらに京都の大光院(現在、春浦院に移転)に分骨埋葬されている。)
 

* * 善三郎が残したもの * *

結局、善三郎は事件を引き起こした犯罪者として引責切腹され、国からは何ら顕彰されることはなかった。
しかし、彼が自栽することにより、国家(新政府)には無形の大きな利益を残したのである。

即ち、

      当時、倒幕派の中に攘夷思想を持つ者が多かった中で、開国和親という国是の変更を、この事件の処理で、一気に変更できた。同時に外国側に新政府の樹立と開国和親の通知をすることができた。

  王政復古で朝廷に政権が移ったが、依然として旧幕府(徳川家)の勢力は大きく、外国側もどちらに統治能力があるのか分からなかった。はからずも、この事件がそれを試される機会となった。新政府が岡山藩という雄藩の藩士を、外国側の要求とおり処刑することを示すことにより、新政府の統治能力が諸外国に認められて、以後の戊辰戦争を有利に展開することができた。 

こうしてみると、犯罪者として、あるいは人柱同然として身を捧げた善三郎には何も残らず、全く気の毒であり、残念様といわざるを得ないが、救われるとすれば下記のような後人の評価を得たことであろうか。

「この犯行は無数の生命の犠牲を伴う戦争まで発展するところだったのですが、一人の切腹によって解決されたわけです。私は日本のためにも外国のためにも、その手段を講じたことは賢明だったと思います」(英国士官ミッドフォードの報告書より) 

「善三郎の切腹によって外国との戦争にならずにすみ維新政府は戦争の危機を免れることができたのである。神戸事件が第二の上海や香港のようにならなかったことを後人は決して偶然と考えてはならない」(朝日新聞 天声人語:昭和13年月6日)

 

* * おわりに * *

2017年に神戸開港150年目を迎える。神戸港の現状を考えた場合、最早や“港町神戸”と言うには恥ずかしい位落ち込んでおり、はたしてその時に市や県が記念行事を企画するのかどうかは分からない。
しかしながら、今日の神戸の発展は神戸開港が大いに寄与しているのは紛れもない事実であり、私は記念行事を当然やるべきであると考えている。
そして、もし、記念行事が行われた場合、開港後まもなく外国兵に神戸の町が占領され、そのとき身を捧げて国難を救った、備前藩士滝善三郎のことも思い出して欲しいと願っている(少なくとも神戸市民の方々におかれては)。
 

参考文献

根本 克夫著[ 検証 神戸事件 ] 創芸出版

日向 康著著 [非命の譜・神戸・堺浦両事件顛末] 毎日新聞社

矢野 恒男著 [維新外交秘録 神戸事件] フォーラ・A

内山 正熊著 [神戸事件] 中公新書
 

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