#69《神戸三宮の残念様(神戸事件:その17)》              
                                      
                                                             2011.03.26
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武士の本分(2)

善三郎は三宝から短刀を取り上げ、奉書が巻かれていた刀身をしっかりつかむと、外国人の目にも入るように高々とかざすと、僅かに突き出た先端の切り先が蝋燭の灯りに照らされて不気味に光った。
善三郎が九寸五分の短刀を静に三宝の上に戻した。
再び丁寧に敬礼すると大声を発した。
 

* * 最後の言葉 * *

「去月十一日神戸に於いて行列へ外国人共理不尽に衝突したるに付き吾が国法に違うをもって兵刃を加え続いて発砲号令せしは即拙者なり。
吾は遠国の者にて朝廷如斯外国人を鄭重に御取扱に相成ること全く承知せず、今過日の罪科を償うため此処に割腹して死す、御見証を乞う。」

善三郎の最後の言葉である。
短い言葉であるが善三郎の悔しい思いがにじみ出ている。
彼は、今回外国人に兵刃を加えたのは[行列へ外国人共理不尽に衝突したるに付き]と述べている。即ち、今回外国人に兵刃を加えたのは、外国人が道理に合わない行為をしたので、それを国法(武家諸法度)に従って対抗処置をとったと、偽ることなく真っ直ぐに心中を述べている。新政府の処刑理由の達書が「妄動之所為不行届之至ニ候」とし、「重畳不容易罪科ニ付(重ね重ねの罪科)」とは大きく異なっている。
つまり、彼は「外国人を咎めたのは、自分は外国人が嫌いとか、攘夷からというのではなく、たとえそれが日本人においても同じことですが、主公の行列を横切る(供割)という無礼を、武士として当然咎めたに過ぎません。それが武士としての本分(本来の勤め)ではないでしょうか」と正直に本音を述べている。

そして、「発砲号令せしは即拙者なり。」と何のためらいもなく責任を一身に背負っている。彼は発砲号令はしてはいないが、このごに及んで部下がやったなどと、とやかくいってもどうなるものでもない。立派なものである。善三郎の人となりがよく表れている一言である。
今回、彼に関する文献を調べている中で、この「即拙者なり」という非常に短い一言に、私は感動した。

これは簡単なようであるが、なかなか言えない。
今日においても、企業の不祥事においては「部下がやっていて私は全くしらなかった、しかし同義的責任は感じております」と弁明し、深々と頭を下げて謝罪する社長と役員の会見、政治家においては「秘書がやっており私は全く関知していなかった」と、責任を回避し、長々と弁明のみをしている会見をよく見かけるが、「全ては私の責任です]と、きっぱり言える人は上に立つ人ほどすくない。

次に、
吾は遠国の者にて朝廷如斯(そのごとく)外国人を鄭重に御取扱に相成ること全く承知せず
これは、新政府に対する痛烈な皮肉である。
“今回、たまたま外国人でありましたが、別に外国人だからと意識したわけではありません。備前藩側として国法に逆らう行為を咎めただけにすぎません。それをやたら外国人をかばう新政府の態度はどうしたことでしょう。つい最近まで貴方たちは攘夷を国是として唱えていたではありませんか。私は遠く離れた備前という田舎にいる侍で、外国人をそれほど鄭重に扱うことは露ほどもしりませんでした。
しかし、私が今から自裁するのは、貴方達がいう万国公法「宇内の公法」にそむいたなんかではありません。天皇のため、朝廷のため、備前藩のため、日置家のため、自分の命を捧げて、(君恩に報いるという)武士の本分をまっとうしたいからです。”

と、彼の押えかたい怒りがにじみ出ている。

最後の口述は、備前藩など多数のものが切腹に居合わせて書き留めているが、切腹後3日後に通知された、政府の公式記録では次のように改竄されている。

割腹之節瀧善三郎口演割腹之席ニ臨左ノ通
「去ル十一日神戸通行之節夷人より無法の所業候処より無拠加兵刃即其挙発砲号令之者拙者也然ル処今般王政御復古更始ご一新之折柄宇内ノ公法を以御処置被遊割腹被。仰付候付則割腹致し候御検証可被下候
                  (大日本外交文書第一巻第一冊)


“王政御復古更始ご一新之折柄宇内ノ公法を以”が改竄された部分である。
新政府としては、公式記録の中に、善三郎の最後の口述をありのまま載せるわけにはいかなかった。

現実をありのまま世間にばらされては新政府の立場がない。そこで新政府は粉飾工作をする必要があり、何がなんでも宇内の公法を持ち出して犯罪者として処刑せねばならなかったのである。
 

* * 善三郎の最後 * *

最後の口述を終えた後、いよいよ切腹にとりかかった。このときの描写については、
新渡戸稲造著「武士道」の中に、英国側検証人として切腹を見聞した英国武官ミッドフォードの記録が紹介されている。それを紹介したい。
(前略)
「我々(7人の外国側見証人)は日本側の検視役に先導されて、その寺院の本堂へ案内された。ここで切腹の儀式が行われる事になっているのである。その儀式はまことに堂々として、忘れえぬ光景であった。
(中略)
再度の一礼ののち、善三郎は麻の裃を帯あたりまで脱ぎ下げ、上半身を露にした。慣例とおり、注意深く彼はその袖を膝の下へ敷き込み、後方へ倒れないようにした。身分のある日本の武人は前向けに倒れて死ぬものとされていたからである。
善三郎はおもむろに、しっかりとした手付きで、前に置かれた短刀を取り上げた。ひととき彼はそれをさもいとおしい物であるかのようにながめた。最後のときのために、彼はしばらくの間、考えを集中しているようにみえた。
そして、善三郎はその短刀で左の脇下を突き刺し、ついでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きを変えてやや上方へ切り上げた。このすさまじい苦痛にみちた動作を行う中、彼は顔の筋一つも動かさなかった。短刀を引き抜いた善三郎はやおら前方に身を傾け、首を差し出した。そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。だが、声はなかった。
その瞬間、それまで善三郎のそばにうずくまって、ことの細大もらさず見つめていた[介錯]が立ち上がり、一瞬剣を構えた。一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どっとばかりに倒れる物体。太刀の一撃で、たちまち首と胴体は切り離された。
堂内寂として声なく、ただわれわれの目前にある、もはや生命を失った肉塊から、どくどくと流れ出る血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。一瞬前までの勇者にして礼儀正しい偉丈夫はかくも無残に変わり果てたのだ。それは見るも恐ろしい光景であった。

[介錯]は低く一礼し、予め用意された白紙で刀をぬぐい、切腹の座から引き下がった。
血塗られた短刀は、仕置きの血の証拠として、おごそかに持ち去られた。
それから、[ミカド]の政府の検視役二人が席を立ち、外国人見証役の座っているところへ近づき、瀧善三郎の死の処分が滞りなく遂行されたことをあらためられたい、と申し述べた。儀式は終わり、我々は寺を後にした。

切腹の儀式は深夜、それも死者の霊を祀る寺院の本堂で行われただけに一層荘重な雰囲気に満ち、身分の高い日本の武士らの厳格な礼儀作法にしたがった態度が、ひときわ顕著であった。(中略) 
私はその恐ろしい情景に心底から感動したと同時に、受刑者の男らしい沈着な挙動や、介錯人がその師に対して最後の勤めを果たした剛毅な振る舞いに、ただただ感嘆の念を禁じえません」(訳:奈良本辰也)

こうして、開国間もない神戸の町が一時外国兵に占領された大事件の責任を一身に背負い、従容として死につき、外国人に武士道とは何たるものかを示して感動を与え、そして武士としての本分を貫いて、瀧善三郎正信は慶応4年2月9日(1868年3月2日)の夜11時半、 32歳の生涯を閉じた。

彼の辞世の句である。
“きのふみし夢は 今更引きかえて 神戸が宇良に 名をやあけなむ”
(これは、“昨日までみた浮世の夢は、今となっては消えてしまった。ここでわが名を神戸の浜辺に挙げてやろう”という意味だろうか、それとも“このたびの出陣は家族のために何か手柄をたてて名を上げようとの思いがあったのに、それが神戸において、このような事件に巻き込まれて、まさかこのことで名を上げるようになろうとは夢にも思わなかった”という悔しい思いが込められているのであろうか)
 

* * *

丁度この日(2月9日)、瀧善三郎の切腹の事はまるでなったかのように、京都では有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任じられ、5万の大軍を引き連れ、錦の御旗を先頭に鼓笛隊を従え、
  宮さん 宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
    トコトンヤレトンヤレナ
  あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか
    トコトンヤレトンヤレナ

我国初の軍歌「宮さん、宮さん」を演奏しながら、華々しく東へ東へと進発していった。
 

* * *

善三郎が切腹した日から6日後の2月15日に、日仏双方で22名の犠牲者がでた堺事件が起き、そして、この年の9月、年号は「明治」と改元された。

この神戸事件は、徳川の世から明治の世に移行する直前の、正にドサクサの時に起きた事件なのである。
 

(その17:終)

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