#68《神戸三宮の残念様(神戸事件:その16)》              
                                      
                                                             2011.03.20
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武士の本分(1)

藩命により発砲号令者として差し出すのは、三番隊長の瀧善三郎正信に決まった。
次に善三郎に発砲号令者として責任をとってもらい切腹するよう説得する必要がある。これは家老日置帯刀の命を受けて、善三郎の同僚達が説得に当たることになり、その代表として日置隊の一番隊長を務めていた兄滝源六郎が先ず説得することになった。このときの様子が善三郎と同宿の同僚備前藩士篠岡回想記に残されている。

 (前略)

源六郎来宿し弟善三郎に対(むか)い厳然として曰く「この度の出来事皇国の一大事なり、発砲号令者の者、各国見証を得、割腹せしむべき旨、朝旨なり、依って其許に割腹を命じられる、宜しく畏まるべきなり、若し異存あらば拙者代わりて御請申すべし、如何に」 

善三郎顔色自若言下に答えて曰く「重き朝旨とあり且主公の命あれば直に御請可仕(おうけつかまつる)」(中略)

先に説諭方を命じられた面々来るに会し、実を告ぐ。予に共に慰諭し善三郎の決意を知り一同感嘆す。浜田は直に本営に至り善三郎奉畏旨(かしこみたてまつるむね)を言上す。主公深く御感賞あり、暗涙されたる様に拝せと承る。

善三郎は兄の説得に、ためらうことなく藩命に従って割腹することを了承した。この時代は「恩君に応える」という幕藩体制の道徳観が根強く残っていた。

今の瀧家は主(日置家)が存在しているから存続し、さらにその主は藩があるから存続している、そこで臣は主に対して忠義をつくして恩に応えるという君臣の道徳観が残っていた。

* * *

瀧善三郎について、簡単に触れてみる。
善三郎は砲術家の家系の次男として生まれ、幼くして父を亡くし母に育てられた。
当時の世襲制では長男が家督を継ぐので、次男以下は知料(今日の給与に当る)がなく、僅かばかりの扶持米(今日の家族手当)が与えられて、兄夫婦と同居していた。

年齢は善三郎32歳、同妻はつ28歳、同長男成太郎4歳、同長女いわ2歳、兄源六郎(46歳)、源六郎妻まさ(45歳)、母ちか(73歳)ある。

教育は兄に教わった。
若くして文武両道をたしなみ、武術においては小野派一刀流の剣と槍を修得し、砲術にも長じていた。文芸面では和歌の他謡曲を好んでいた。このように文武両面で秀でており、将来有望な家臣として見込まれ、わずか17歳で家老日置帯刀の側近となった。
切腹のときの見証人アーネストサトウ(英国書記官)は、善三郎の風体について「背の高い紳士のような風采と顔つき」と記しているところから、偉丈夫で凛々しい武士としての容姿が偲ばれる。

* * *

備前藩日置帯刀は断腸の思いで、善三郎を発砲号令者として差し出す事をきめ、正式な届出を新政府に提出した。

 届書
     備前少将家老 日置帯刀家老馬廻士
     知高100石 瀧善三郎 年齢32歳

右者先般神戸通行之砌、外国人ト行縺之義ニ付、公法ヲ以御処置被為在候、発砲号令之士官割腹被仰候旨御達ニ付、右人体之者明七日兵庫表ヘ差出申候、

此段不取敢御届申上候以上
二月六日
 

次男なので禄石(給与)はなく、小額の扶持米を受け取るぐらいであったが、届書では禄高100石が与えられている。
もちろん、これは遺児が引継ぐことになるが、主のために身代わりとなって死に行く家来善三郎に、後の家族の事は心配せぬよう気遣った家老日置のはなむけであった。

なお、政府から備前藩への達書が「外国人に兵刃を加え」「理非之応待にも妄動之所為(余りにもめくらめっぽうな所業であり、不行き届きの至りである)」と事実と異なる文面となっていたが、届書では「外国人ト行縺之義ニ付」(通りすがりの偶発的出来事)と、冷ややかに突き放した表現となっている。
ここに備前藩の耐え難い怒りがこめられている。

* * *

翌7日 瀧善三郎は西宮の陣営から兵庫の宿(枡屋)へ護送された。備前藩の特別なはからいで枡屋の上等の部屋が当てがわれた。
潔く覚悟を決めた善三郎は、ここで割腹のための衣装、切腹、介錯用の刀などの準備を整えた。介錯は同僚の宮崎慎之輔に依頼した。
そして、母、義姉、妻、二人の子供あての遺書をしたためて過ごした。

妻はつ宛遺書

「三人とも無事に暮らし候よし、目出度く候、拙者の身上の儀は兄上様より承るべく候、子供二人とも養育のところ、ひとえに頼み思い候、ことに母上様御事は申すにおよばず、孝行尽くすべく候様、くれぐれもお頼み申し候、以上。
はつどの江     

長男成太郎宛遺書

「忠孝の道相守りご奉公第一に候」
(武士たるものは忠孝の道をまもり、ご奉公第一を天命と心がけねばならない、それ以外は考えなくても良いという意味である)

二歳の娘いわ宛遺書

「女子は女子道 親へ孝行いたすべき候」
 

最後に次の句を添えた

二月七日晩 兵庫に止宿す、風強きままありて終わりなきを思うて

   春風に吹き入るままに初旅寝

(正月に岡山を出てから今までは軍旅の中での泊まりあったが、今日は初めて普通の宿で落ち着いて寝る事ができる。外をみると春一番の強い風が、いつ止むのか分からなままに吹いている)

   死生有命 富貴在天

いまははや森の日陰となりぬれと 朝日に匂う屋まと魂 

                            瀧善三郎正信 花押
 

* * 終焉の地:永福寺 * *

2月9日 いよいよ運命の日を迎えた。
処刑は備前藩が取り仕切って行うことになった。というのは、新政府から備前藩への命令書は「備前藩の責任において発砲命令者を指名し、備前藩におい処刑するように」という内容の指示であったからである。
当然、処刑の場所も備前藩が手配することになった。備前藩外交掛の沢井権次郎は数箇所のお寺を調べ、今の兵庫区南仲町にある浄土宗永福寺に決めた。
選んだ理由は、この寺の間取が儀式に適していたことと、このような儀式に難色を示すお寺が多い中で、この寺の住職が進んでこれを快諾してくれたからである。
江戸時代中期の古図を見ると、西国街道は柳原惣門から南に折れ曲がり仲町あたりで、また折れ曲がり海岸線に平行に東に向かっていた。
永福寺は柳原惣門から南に下った西国街道沿いにあった。

この寺は先の戦災で焼失し、そのあと再建されなかった。焼失前の写真をみると二層式瓦屋根の立派なお寺であったことがわかる。
焼失した跡に「かなてつ」という商号の食品加工工場の敷地になっていたとのことであるが、先日このあたりに行ってみると、「かねてつ」という工場もどこかに移転していて大きなマンションが立ち並び、永福寺の跡は全く分からなかった。一度この辺の地理に詳しい水島君(10組)に案内してもらおうと思っている。

* * *
 

切腹は同日の夕刻に行われることが決まった。
夕刻、宿舎の枡屋から永福寺へ警備隊に守られて向った。その時の様子について篠岡回想記によると

「道筋両側の町民声々に南無妙法蓮華経あるいは南無阿弥陀仏と唱え一際哀れを添え聴くに忍びず、永福寺の表門は菊花を染めたる紫の御幕を張り提灯を立て、門内右手は長州兵、左手は薩摩兵整列して之を固め、玄関入口は本藩蝶紋の御幕張にて勿論提灯を出しあり、一行到着控の座敷に入る」

幕が一面に張られ、そして沢山の提灯、松明の灯りが永福寺の2層の屋根瓦を照らし、厳かな切腹の儀式という式典に向けての準備は整っていた。

善三郎一行は日暮れに到着し控えの室に入り、時刻の到来を待った。

ここに事件発生時に発砲した銃卒6人が最後の挨拶にきていた。護衛隊長の特別の許可を得て会った。(善三郎が銃卒にあったことは外国側の記録にもある)。このときの話の内容を矢野恒男氏著「維新外交秘録・神戸事件」から引用すると、

善三郎は土下座している銃卒たちに声をかけると、銃卒たちはいっそう額を土にこすりつけて、「滝殿・・」「善三郎殿」と、何かしゃべろうとするのだが泣きながらなので声にならない。 やがて中の一人が少し顔をあげて、

「発砲号令もないのに発砲したのは我々、責任は我々にあるというのに・・、このような始末になり、申し訳ございませぬ。いくら詫びても詫びきれるものではございませぬが、何とぞ、何とぞお許しくださいませ!」と、涙声で声をつまらせて言うと、別の者が、「ましてや罪科人の汚名まで着せられるとは、武士として死するにはこれほどの恥辱はございませぬ、我々はそれが悔しいのです」と、涙声で言ってまた土に額をこすりつける。

善三郎は「もうよいではないか、このことについては朝廷より重たき勅命を賜り、また守公よりも命を賜った。もうそれがしには何も言う事はない、あとは潔く死を賜るのみである」と言い、続けて「しかし、これだけは言っておきたい。そなたたちもこの事件を教訓として、それがしのふてつを踏まないように、他の藩士にもつたえ、心がけてもらいたい。そしてできる事ならそれがしの分まで身を堵して日置家のため藩のために尽くしてもらいたい」とおもむろにのべ、「ではこれをもって今生のお別れとするといたす、さらばでござる」と、一礼して立ちあがった。背後から「善三郎殿・・さらばでござる」と泣くじゃくり声が聞こえたが、善三郎は振り替えらず粛々と本堂に向った。
 

* * *

新政府側(検視役)より、切腹は苦痛がないように,形式的に扇子を当てる方法(扇子腹)が提案されたが、備前藩としては善三郎の悔しい思いを考えると形式的なものより本来の作法で切腹すべきあるという考えに至り、善三郎もこれに同意した。
夕食の精進料理が運ばれてきた。
この食膳が下げられた後、謡曲俊寛の「飲むからに」の一節を謡った(別の文献では謡曲頼政となっている)。節調は謡い終るまで乱れることなく、緩みのない声は客殿の各座敷にまで響きわたった。

* * *

切腹の予定(夕刻)は遅れに遅れて夜10時過ぎになっていた。
やがて薩摩藩の五代友厚一人が到着し「今日の午後、死刑者の助命について今まで交渉したが、ここにいたっては妙案もなく、お達しのあったとおり処刑執行することになった。そのように心得るように。やがて外人なども到着するであろう」
遅れたのはこの間、伊藤、五代が助命を懇願し再交渉したが、各国公使間で再協議した結果4対2で助命は否決されたのである。

* * *

午後11時伊藤俊介らの日本側検視役と外国側見証人7名が到着し、本堂の左右に並べられている床机に腰をおろした。
人々の入室で揺らめいた燭台の灯が落ち着くと、本堂内は急に張り詰めたような緊張が襲った。咳きひとつ起こらずシーンとなった。
しばらくして、背が高く、がっしりとした体格の善三郎が麻裃の礼装で、介添人と介錯人を従え、堂々とした身のこなしで姿をみせた。両側の日本側検視役と外国側見証人に恭しく一礼したのち、広間中央の緋毛氈を敷いた台上で身を屈めて仏壇を仰ぎ見て丁寧に拝礼した。それから仏壇を背に正座して目を閉じた。
薄暗い大広間の中央に置かれた燭台の蝋燭の灯りが精悍な善三郎の容姿を神秘的に照らしていた。

介添人が奉書で包まれた抜き身の短刀を載せた三宝を持って善三郎の前に進むと、介錯人の宮崎慎之輔が左後方に廻って背筋を伸ばし、右膝を床につけた蹲踞(そんきょ)の姿勢で待機した。これより外国人が初めて見る厳かな儀式が始まった。
 

(その16:終)

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