#65《神戸三宮の残念様(神戸事件:その13)》              
                                      
                                                             2011.02.09
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開国和親と処罰(2)

* * 諸外国公使と初会見 * *

1月15日、外国事務取調東久世卿は伊藤等を伴い勅使として神戸に出向き居留地内にある運上所(税関)において各国公使と会見し、政権が将軍より朝廷に移行したことと、攘夷から開国和親へ国是変更したことを示した宣言書を手渡した。
我々の神戸の地において、諸外国に対して新政府が成立したことを告げる歴史的な会見が行われた。即ち、新政府として初めての外交交渉がこの地で行われたのである。

宣言書の日付は事件発生前の1月10日となっているが、これは「新政府としては1月10日に諸外国に対して渡すべく宣言書を用意しておいたが、事件発生のため、やむを得ず15日に延期して渡すことになった」という、もっともらしい弁解の余地を含んでおり、発行日を新政府側において都合の良いような日付としたのである。

交渉において各国公使が備前藩兵の狼藉を質すと、東久世卿は「田舎の兵士どもが各国との交際を知らず、日本の武家の礼法のみを心得て、そのような不始末を生じたことは甚だ恥じ入っております。しかし、かかる事件が再び起こるはずはありません。当地は日本の政府により警備することにより迷惑は掛けない所存です。」と答えた。

東久世卿は備前藩兵に対して“田舎の兵士ども”と良く言ったものである。彼は過激攘夷派の中でも急先鋒の公家と知られ、8月18日の政変(1863年9月30日)で長州へ落ちのびた七卿の内の一人である。つい数日前に追放の禁を解かれて外国事務取調べになったが、攘夷思想は充分すぎる位残っていたはずである。
(こうしてみると、人の主義主張というのは立場が変われば簡単に変わると言え、これは今日の我国の政治の世界にまで連綿として受け継がれているように思えてならない。余談となるが・)

さらに、外国公使は問うてきた。
「公使館の国旗に発砲したのは諸外国に対して宣戦布告したのも同じであるが、この処置はいかがなされるべきか」
これに対して、東久世は、
「その処分は各々方の公正な意見を聞いた上、天皇の親裁を請うて、処分に及ぶものと考える」と答えた。 
“公使館の国旗に発砲”と言っているが、備前藩兵の誰も国旗に向かって発砲はしていない。
空き地の空に向かって撃っただけである。だいいち英国領事館にしても西国街道からかなりかけ離れた場所の旧海軍操練所にあり、標的にするには余りにも遠すぎる。
外国側の全くの言いがかりである。

ともかく、新政府と諸外国の第一回目の交渉は無事に終了した。新政府成立を諸外国に初めて宣言したと考えれば、東久世としては成功したといえる。
外国側も東久世の「二度と迷惑をかけない」という言葉を信じて、拘留していた諸藩の艦船を解放した。しかし、水兵が略奪した金、刀剣などの貴重品は一切返却されなかった。
 

* * *

翌16日、東久世が15日の会見で「諸外国からの公正な意見を聞いた上、事件を解決する」と約束した。その「公正な意見」という要求書が諸外国側から提出されてきた。
それは、

1.理由もなく外国公使や滞在する外国人を襲ったことについて、天皇の政府によって書面をもって陳謝すること

2.外国人に対する今後の安全を「天皇の政府」が保証すること。

3.備前藩の発砲命令を下した士官を死罪に処すること。これは各公使館付属士官の立会いの下で処罰すること。悪行を働いたものを遅延なく毅然として処罰されれば、以後は不法な暴力行為が起こらないと理解し、双方が交際することはやぶさかでない

という、一方的な内容の厳しいものであった。 

第一に、謝罪は罪を犯したものが行うもので備前藩には非はなく、非は外国側にある。無礼行為をおこなった外国人の非は問われず、全くの片手落ちである。

発砲も備前藩は理由もないのに発砲したわけではなく、外国人の挑発に対して対抗処置としてとったに過ぎない。その発砲も居留地の空き地の空に向かって撃ったのであり、決して外国人や国旗を狙って撃ったものではなかった。これは全くの言いがかり以外の何ものでもない。

加えて、この事件では双方に死者は全く出ていないのに、罪を犯していない側の士官に対して処刑という極刑を要求するなど、これは帝国主義国家が植民地に対しておこなう常套的手法と同じである。
 

* * *

東久世の回顧録によると、彼は15日、ロッシュ仏国公使と私的に懇談し、この事件の処理について非公式に相談したところ、ロッシュは「要は備前藩の首謀者を一人処分すればよいのです」と知恵を授けられたと記している。
これは全くヤクザの世界である。身勝手で一方的な因縁をつけて、解決しようとすれば金品で片がつくとヤクザからアドバイスを受けるのに似ている。異なる点といえば、金品ではなく、備前藩士の命という点である。
同じく、東久世の随員の薩摩藩の吉井幸輔も西郷隆盛、大久保利通宛の書状で「いずれ足軽大将あたりのところ一人割腹仰せ付けられて、各国の人身安堵いたし候・・」と報告している。
そして「もし、このたびのことで、外国側の気持ちを損なうことがあれば、新政府に大難が降りかかっているのが見えている。そうなれば徳川が頭を持ち上げてくることにもなりかねない」と付け加えている。
 

* * *

新政府は、威圧的な外国側の要求に対して、事件の原因を質して抗議するのは避け、各国の要求を全面的に受け入れ、迅速にこの事件を解決する道を選択した。
即ち、この時より外国側には平身低頭し国内(備前藩)に対しては「まず、切腹ありき」の筋書きが形成されてしまった。

 * * 処罰 * *
 

新政府は19日の朝議にこの問題を取り上げ審議された。朝議はおおもめにもめ、翌日20日にようやく外国側の要求を全面的に受け入れることで決定した。

1月20日、朝廷より東久世宛へ次のような命令文が出された。
「天皇は、外国代表が備前候の家来が犯した暴行に対して、全く正当であると考えられ其の処置を課せられるであろう。貴下はこのことを直ちに外国代表に伝達されたい(要約)」

このように、近代日本の外交交渉の第一歩は列強に対しての一方的な屈従から始まった。そして、新政府は備前藩に対する処置として次のような「岡山藩への沙汰書」を送った。
「家老日置帯刀攝州神戸町通行の際、外国と銃撃戦におよんだ処置は万国公法にしたがって朝廷より下されることが決まったので、そのように心得るように。その処置が具体的にどうなるかは追って沙汰があること(要約)」

この時点で処刑にすることは既に決まっていた。それを“万国公法”を持ち出して処罰することにしたのである。

(その13:終)

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