#64《神戸三宮の残念様(神戸事件:その12)》              
                                      
                                                             2011.01.27
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開国和親と処罰(1)

その若者とは、伊藤俊介(後の博文)である。 
彼は京都に用事があり、下関から英国の軍艦に乗り込んで神戸で降りた。
ここより京都に向かうつもりであったが、下船した神戸の町が外国兵により占領され、日本人の通行さえ禁じられている、ただならぬ様子を見て驚いた。

前日の11日に、この地で起きた事件を知らされた伊藤俊介は、ことを円満に解決することができないかと思案し、かねてから面識のある英国公使パークスを訪ねていった。
彼は長州藩の藩命で井上馨とともに欧州視察した経験があり、その経験をかわれて藩の外事折衝役を任されていて、英国より船舶、武器等の購入を通じてパークスとは面識があった。

パークスと言えば中国広東領事を務めていたときに、アロー号事件(1853年10月)を契機に、かの悪名高い第二次アヘン戦争を挑発した張本人であり、武力にものを言わせることで名前が知られていた人物である。

伊藤は以前のように、なあなあの会話でフレンドリーに話が進むと思っていたが、パークスは、いきなり凄い剣幕で彼に怒りをぶちまけた。
「貴国は口では開国和親などと云うが、昨日の備前藩の行動からみても、まだまだ日本人は攘夷論者ばかりではないか」
弁解しようとする伊藤に向かって、さらにパークスは続けた。
「このたび、貴国では、幕府に代わって新しい政府を作ったと聞くが、我々各国に対して挨拶一つもこないではないか、日本の出方によっては、われわれにもそれ相応の考えがある」とケンもホロロの態度である。
ようするに、新政府は王政復古と言いながら、諸外国に対して政権が代わったことの通知、今日の会社に例えると、社長および役員交代の通知(Notice)を出していなかったのである。

伊藤は「数日のうちに、始末をつける」と大見得をきって、12日に慌しく京都に向かった。
この「数日のうちに、始末をつける」と大見得をきったことが、ことの真実究明に影響を及ぼし、無用の犠牲をだすことにもつながった。
パークスが如何に激怒しようとも非は相手側(仏兵側)にある。しかし、伊藤の頭の中には、いかにしてパークスの怒りをなだめるか、また如何にして早く事件を解決させることができるかしか念頭になく、相手側の非を指摘して反論することはしなかった。

翌日の13日に外国事務取調掛に任命されたばかりの東久世卿を訪ねて、神戸での一部始終を報告した。
そこで、伊藤はこの事件の処理は、
1)先ず王政復古により日本の政権が朝廷に帰属したことを各国に告げることが先決であること、
2)その後、神戸で起きた事件の解決に着手すべきと主張した。
東久世卿も伊藤の意見に同意、そのことを朝廷に具申した。

一方、備前藩の日置帯刀も参与の後藤象二郎に面会して、神戸で起きたことの一部始終を上申し、続いて、公卿三条実美に抗議文を添えて提出した。さらに薩摩藩も大阪藩邸から情報(但し、英国兵が死亡したとと誤った情報)が入り、パークスと関係の深い薩摩藩は憂慮した。
この神戸で起きた事件は誕生間もない新政府にとっては寝耳に水。この高圧的な抗議文に震えあがった。
13日、早速朝議が行われた。
朝議は伊藤が進言した順序に沿って進められ、先ず王政復古の事実を正式に諸外国に通知する宣言書が交付された。
伊藤はパークスに直に合っていたため、この事件の問題点がどこにあるのかを心得ていた。もし、このとき伊藤がいなければ交渉の糸口が分からず、事件解決は相当長引いていたかもしれない。
 

 * * 不可解な宣言書(第一号) * *
 

13日に朝議が開かれて、各国公使宛の明治新政府宛の宣言書(国書)が出されることになった。 

日本国天皇、告諸外国帝王及其臣人、前者将軍徳川慶喜諸帰政権也、制允之、内外政事親裁之、乃日、従前条約雖用大君名称、自今而後当換以天皇称、而各国交際の職専命有司等、各国公使諒知斯旨。
    慶応四年戊辰正月十日       御名     国璽 

(要約:日本国天皇より、諸外国の王及びその臣民に告げる。前将軍徳川慶喜が政権を返上したい申しと出たので、これを許可した。国内、国外の政治のことについては天皇が執られる。それから将軍の名称で締結された従前の条約も、これから以後は天皇の名称に代える。そして各国との交際については専門職を設け、そこに当らせる。各国公使はその旨を了解していただきたい。) 

この漢文体で書かれた宣言書は政権が幕府から天皇になったという点と、外国との交流も行う、即ち、先帝孝明天皇が下命した攘夷から開国和親に国是を変更したという宣言である。
この宣言書の不可解な点は、日付が“正月10日”付けとなっている点である。

神戸事件は、正月11日に起き、朝議が行われたのは正月13日であるので、本来なら宣言書の日付は13日以降となるべきであるが、事件が生じた前日の10日付けとなっている。

つまり外国に対しての開国和親は事件が起きる前の10日にはスタートしていたということを宣言している。
正しく新政府にとって都合の良いように辻褄をあわせた、粉飾宣言書である。

後に、この巧妙に粉飾された宣言書をもとに備前藩が処罰され犠牲者がでることになった。

(その12:終)

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