#63《神戸三宮の残念様(神戸事件:その11)》              
                                      
                                                             2011.01.11
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事件発生(3)

この銃声を聞いたイギリス公使パークスは、警備兵、フランス、アメリカ両国を加えた一隊を直ちに現地に向かわした。しばらくして陸戦隊も上陸して備前兵を追った。

備前軍は西国街道筋となっている生田神社参道を右折して生田川を渡り、今のJR三宮駅付近の西国街道を行進していた。
そこへ、外国兵の一隊が駆け足で追いついてきて銃撃を開始し、さらにもう一隊の赤い制服のイギリスの陸戦隊が備前軍の後尾に向けて銃火を浴びせてきた。

突然の外国兵の攻撃に驚いた備前軍も応戦し、一時双方で撃ち合いとなったが、すぐに家老日置帯刀は戦闘拡大の危険を察し「発砲してはならぬ!」と厳命し、全軍を摩耶方面の山道に向けて駆け足で引き揚げさせた。
隊列がこのまま、西国街道を進むのなら外国兵の追撃を受け、もしこれを迎撃するのなら戦闘拡大は必至で双方に死傷者が出る恐れがあった。それを恐れた日置帯刀は山側へ全軍を避難させたのである。外国兵も山側まで追撃するのは断念し、戦闘は終結した。
結果、この戦闘で双方に死者はでなくて済んだ。(このときの、家老日置帯刀が下した発砲中止の命令は、後の事件の交渉を考えると適切な判断であった)
この戦闘で、備前軍は大砲、荷物等を、かなぐり捨てて避難したが、老齢の槍持ちの足軽一人が足元がおぼつかなかったため捕虜になった。残りの藩兵は摩耶山の山道沿いを夜を徹して行軍し、翌朝12日の明け方に宿営予定の深江村に無事到着した。
 

 * * 強圧的な抗議文 * *
 

一方、外国側はその日、次のような抗議文を神戸、兵庫の町に掲示した。同時に捕虜にしていた足軽に同様の抗議文を持たせて放逐した。足軽は抗議文を持って、まっしぐらに西国街道を東に走しり、山道を迂回してきた本隊より先に深江村に到着した。
遅れて到着した日置帯刀はこの抗議文を一読した。
納得のいかない抗議文ではあったが、抗議内容が備前藩のみならず日本全体に及ぶ容易ならざる文面となっており、善後策を講じるために京都の備前藩邸に早籠で向かった。

(外国側からの抗議文):
「本日、備前藩の日置帯刀の軍隊が神戸村を通行中、藩兵の者が理由もなく槍や鉄砲で外人に襲いかかってきた。いったい何故そのような行為をしたのか即刻申し開きに来るよう。ただし、説明が充分納得できるものでなかったら、備前藩は外国側に戦いを挑んだものと看做し、当方は相応の対抗措置をとることになろう。そうなると、単に備前藩だけにとどまらず、災難は日本国全体に及ぶことになろう。」

この騒動の動機になったのは、仏兵の理不尽な「供割り」であり、しかも居留地外で起きた事件であるのに、これには一切触れず、一方的に備前藩の暴挙によるものだと決め付けて、高飛車な恫喝的態度に出てきたのである。
また、居留地においては備前藩が報復に来る可能性も想定して、塹壕を掘ったり、大砲をすえつけたり、続々と各国の兵も集まってきた。こうして神戸の町は完全に外国兵によって占領された。
 

* * 日本蒸気船の拘留と略奪行為 * *
 

次に海上においても、外国軍艦によって実力行使が行われた。
兵庫・神戸の港内に停泊していた諸大名の蒸気船4隻が拘留されたばかりか、船内に積み込まれていた金品、荷物、機械、刀剣等の他、乗組員が身に着けていた物まで、外国兵に強奪された。
この略奪行為によって日本側がこうむった被害は甚大であった。被害にあった福岡藩の届書き(下記)が残されている。

「11日、兵庫港に停泊中の藩所有の蒸気船蒼隻丸へ外国兵多数が乗って来て、無体に乱暴を働き(中略)、外国兵は我々が所持しているものも出させてそれも奪い、その上、杖、薪などでなぐりかかってきた。我々日本人はそれぞれ歯軋りしながら我慢した。反抗して打倒しようと思ったが、年長者がきてこれを止めた。国の政治が一新した時期であり、外国との交際が重要なときであるから、ささいなことで怒ったりすれば騒ぎが大きくなり、もしこちらから争いを仕掛けたようにとられたならば、日本中が動乱に巻き込まれることになりかねないと思った。(中略)

耐え難きを忍び、怒りを抑えて外国兵の略奪にまかせておりましたときに、沖より蒸気船が蒼隻丸へ乗りつけ、神戸の方へ曳航し、イギリス軍艦に繋ぎおいて、外国兵は各艦に引き揚げていきました。損害は現金1600両、機具、博多織等の見積もり額:600両、機械の破損見積もり額:300両」(岡久渭城著:神戸事件)

外国兵の暴行・略奪が如何に激しかったかを物語っている。他の3隻も同様の略奪行為が行われた。

英国書記官のアーネスト・サトウも1月13日の日記で、「イギリス兵は―:実はアメリカとフランスの水兵もそうなのであるが:―ありとあらゆる種類の“こそ泥”のたぐいを働き、我々の評判を大いに落とした」と記し、略奪行為の無法さを悔やんでいる。(後ほど、事件が解決したときに、拘留された蒸気船は返還されるが、略奪されたものは何一つ返却されず、泣き寝入りとなった) 

そして、列国は、前日の抗議文掲示に続いて、次のような申し入れを兵庫・神戸の町に掲示したのである。

1)事件が生じたため、港内に停泊中の日本船を抑留する。

2)事件に対応するため各国は軍事行動に出るが、一般市民は平静にするよう。

 3)各国は兵力をもって警備を行うが、武器を備える者以外の通行は自由である

旧幕府の官吏が離散して神戸の町は無政府状態になっていたとは言え、外国側の申し入れは誠に身勝手で高圧的である。
列国側は独立国である我国の主権を犯して、勝手に兵を上陸させて神戸の中心部を占領し、軍事統制下においたわけである。これは強盗が他人の家に押し入り、おとなしくしておれば危害を加えないというのと同じで、全く日本を見下した傲慢な行動と言える。このように、神戸の中心部は外国軍に占領されて、町は混乱の極みに達し、町民の中には戦火に巻き込まれるのを恐れて荷物を纏めて避難する者も出てきた。

この知らせは、発足したばかりの新政府をも震撼させた。鳥羽伏見の戦いから1週間もたっておらず、戊辰戦争も始まったばかりである。新政府も体制は整っておらず、外国と交渉するにしても、旧幕府の柴田剛中のように、外事交渉に慣れた官吏がいるわけではなく、列国の強硬な態度に周章狼狽するのみであった。
 

* * *
 

神戸の町が騒然となっていた12日、欧州視察を終えて帰国したばかりの若干27歳の若者が船に乗って、たまたま神戸にやってきた。
この若者が列国との交渉の窓口となり奔走することによって、この事件は一応決着し、新政府は救われたのである。

(その11:終)

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