#61《神戸三宮の残念様(神戸事件:その9)》              
                                      
                                                             2010.12.27
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事件発生(1)

翌日、即ち慶応4年1月11日、運命の日の朝を迎えた。

大蔵谷で夜を明かした日置隊は、明け方宿を出発し、西国街道を一路東に向けて進軍した。先頭の砲隊長は瀧善三郎の兄の瀧源六郎が務め、善三郎は3番目の砲隊長として行軍に参加していた。昼前に兵庫の備前藩本陣「網屋」につき、ここで昼食をとった後、西国街道をさらに東に向かい、今の元町商店街にさしかかったのは午後時ごろであった。
西国街道はメインの街道といっても道幅は2間(3.6m)の狭い道で、現在の三ノ宮駅ダイエー北側にその面影が残っている。 
狭い道なので、350人の人数が縦列でぞろぞろ行軍すれば、通り過ぎるまで相当な時間がかかったと思われる。

日置隊が神戸の町に入った時、神戸の町は1月3日に京都の鳥羽・伏見で勃発した戦争のあおりで、最悪の状態になっていた。
 

*  * 鳥羽 伏見の戦い *  *
 

日置隊が岡山を出発する前日(慶応4年1月2日)、京都において事態は急変していた。
江戸薩摩藩邸の焼き討ちの知らせを受けて、大阪城にいる旧幕府側兵士達の怒りを制止することは出来なくなり、慶喜は討薩を決めた。

1月2日 旧幕府軍、桑名藩、会津藩からなる総勢15000人が京都御所を警備している薩摩兵討伐のため向け京へ進軍した。迎え撃つのは薩摩藩兵と長州藩兵合わせて5000人と兵の数では劣勢であった。
 

* * *
 

大阪から京への街道は、西国街道、竹田街道、鳥羽街道、伏見街道の四つの街道があった。兵力に劣る薩長の兵は分散を避けるため、鳥羽街道と伏見街道の二つの街道のみを固めて守っていた。
旧幕府側はガラ空きの西国街道と竹田街道は無視して、薩長が守っている鳥羽・伏見街道へ全勢力の兵を進めるという最も拙劣な戦術をとった。

1月3日 鳥羽街道において開戦となり、続いて伏見街道において開戦となった。
戊辰戦争の始まりである。道幅2間という狭い街道において、しかも戦闘体制ではなく縦列の行軍体制のままで戦いが始まり、既に戦闘体制をとっていた薩長の集中砲火にあい、圧倒的優勢な兵力を生かせず緒戦で敗北した。
のちに、この“鳥羽・伏見の戦い”は『戦略・戦術なき戦いは何倍の兵力を要しても勝てない』の例えとなって後世へ語たり継がれることになった。

幕府側は圧倒的に優位な兵員数の優位差を生かした戦術をとることはなく「自分達の圧倒する大軍が押し寄せているところを見せれば、薩長の兵は戦わず逃げ出すだろう 」という思い込みの戦術でしかなかった。
ただ、薩摩が憎いという激昂に駆られて進軍したものの、まさか実際に戦闘になるものとは夢にも思っていなかった。
フランス教官によって訓練された旧幕府の伝習隊も薩長より速射性に優れた新式銃を有しながら、一人が逃げ出すと残り全部も羊の群れのように後を追って逃げてしまったように、士気の面でも薩長より劣っていた。
 

 * * 錦旗の威力 * *
 

三日間、幕府軍は負け続け、 そして岩倉具視が密かに用意していた錦旗が薩長側に立った。
以後、薩長軍は官軍(正統派軍隊)に、幕府側は賊軍(非正統派軍隊、逆臣、朝敵)となり、これを見た旧幕府側兵士は、自分たちが朝敵となったことを知り戦意を消失した。そしてこの戦いで「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉を残した。

鎌倉時代に使用されていたという錦旗の威力は絶大であった。旧幕府と薩長間の私闘と考えられていた戦いに「官」対「賊」と分かりやすく、はっきりとした大義名分が生まれたのである。これまで傍観し態度を決めかねていた西国の諸藩や、津藩、淀藩、井伊大老が出た彦根藩などの譜代大名もオセロゲームで、色が一瞬に変わる様にパタパタと官軍側(薩長側)支持に変った。参戦を躊躇していた土佐藩兵も藩主山内容堂の制止を振り切って官軍側に加わってきた。
 

* * *
 

この錦旗が持つ魔法みたいな威力。我が国においては、非正統派(逆臣、朝敵)になると汚名を残すという朱子学の思想が敵味方とも十分過ぎる位学習されており、錦旗の意味するところが容易に理解されていたので、絶大な効果を発揮した。
これが朱子学を解しない異民族が相手の場合には、ちょうど朱子学を生み出した宋国が異民族に滅ぼされたように、こちらがいくら正統派であると言って、その証の錦旗 を掲げても“あれはなんじゃいな”という感じで、格好の標的とされ狙い撃ちされたに違いない。
 

* * 将軍の敵前逃亡 * *
 

この戦いに参加した旧幕府側の兵士以上に錦旗の威力を感じていたものがいた。
それは朱子学の流れを取り入れた水戸学で徹底的に教育された将軍慶喜である。
薩長側が官軍になったのを知ると、6日夜、旧幕府側近の小人数を連れて大阪城を抜け出し、軍艦で江戸城まで逃げてしまった。
このとき、藩祖保科正之(徳川家光の異母弟)が定めた「徳川第一と考えて忠義を尽くすべし」という藩訓を守って徳川家にひたすら忠義をつくしてきた、会津藩主松平容保が「戦は今始まったばかりで、態勢を整えて反撃すべき では」と問うと、慶喜は「江戸で体制を整える」と答えたとのことであるが、本音は“朝敵になるという汚名”を恐れていたと言われている。
江戸に帰ると、恭順の意を示すため自から謹慎した。

京へ進軍した旧幕府側15000人の内、鳥羽・伏見の戦いで消耗した兵は2百数十人ばかりであり、まだ旧幕府側の軍勢は圧倒的に多く、大阪城には新式の銃も沢山あり、フランス側も旧幕府側の数段まさる海軍力で反撃する作戦を献策したが、慶喜には、もはや“官軍”になった相手に朝敵と呼ばれてまで、 立ち向かうという気力はなかった。

鳥羽伏見の戦いから敗走してきた旧幕府軍が、一旦大阪城に引き返して態勢を整えてから反撃しようと大阪城に帰ってみると、主の将軍は既に大阪城から脱出していたのを知り、旧幕府軍の戦意はすっかり消えうせ、大阪城に火をつけた後、兵員は全て離散してしまった。(この後1年数カ月、旧幕府軍との戦闘は続くが、実質的には慶喜が大阪城を逃げ出した時点で260年続いた徳川幕府は崩壊した)
 

* * 無政府状態 * *
 

離散したのは、この戦いに参加した兵だけではなく、京から迫ってくる薩長軍(官軍)を恐れて、大阪の市中の治安を担当していた大阪奉行所などの役人達も一斉に職場放棄をして離散してしまった。
大阪市中から一瞬のうちに警察官が居なくなったみたいで、無政府状態となった。
 

* * *

この鳥羽伏見の戦いの結果や将軍慶喜が大阪城から逃げ出した知らせは、旧幕府の外事掛より外交官にも知らされた。
このとき各国は大阪開市のために、大阪川口町に公館を建設中であった。
外事掛は外交団に対して「もはや外国人にたいする安全を保障できない」と告げ、兵庫奉行の柴田剛中も「京より薩長軍がせめてくる、市中には役人は誰もいないので御自身の安全は各々で守られたい」と言い残して自分で船を傭船して江戸へ去ってしまった。

いまだ攘夷思想が強いなか、外国人は紛争に巻き込こまれるのを恐れて大阪から急いで居留地のある神戸へ逃げ、各国の軍艦も自国民の保護のため神戸へと集結して神戸の町は大勢の外国人で溢れていた。

パークス英国公使等の諸外国の公使たちも続々と神戸の居留地に移動してきた。

神戸の町も幕府が倒れたとなると旧幕府の直轄地であったため、直接影響を受けた。
兵庫奉行の柴田剛中がいなくなり、神戸の治安を担当する兵庫奉行所の役人も離散したため全くの無政府状態となって治安は最悪の状態であった。
 

* * *

このように治安が悪く軍艦や多くの外国人が大阪から難を逃れて神戸に集まっている状況の中、昼2時半ごろ日置隊(350人)が大砲隊を先頭に、鉄砲隊、士頭、徒組、輜重隊の順で隊列をなして「下に〜、下に〜」と掛け声をかけながら大丸北側の西国街道を東に向かって行軍してきた。
侍行列に慣れている町民は土下座して通り過ぎるのを待っていたが、日本の慣習を知らない外国人はめずらしい侍行列を見ようと、狭い西国街道の両側に集まり、一般町民のように土下座せず立ったまま見物していた。
藩兵たちは、これら外国人の態度を「何と礼儀をわきまえない奴らだ!」と、厳しい表情を見せて行進を続けていた。

この隊列が三宮神社の前あたりにさしかかった時、事件が起きた。
 

(その9:終)

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