#60《神戸三宮の残念様(神戸事件:その8)》              
                                      
                                                             2010.12.23
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備前藩へ西宮警備の勅命

江戸薩摩藩邸の焼き打ちの知らせは、慶応3年12月28日(1968年1月22日)大阪城に届き、城内にいた幕臣達は激昴し慶喜はもはや制止すること が出来ず、薩摩討伐を迫られ、出兵上京を決意した。

同じ日に薩摩藩焼き打ちの知らせが朝廷にも届き、いよいよ一触即発の危機到来となり衝突は避けられない事態となった。
同じ日の慶応3年12月28日(1968年1月22日)、備前藩に対して西宮に駐屯し東側にある尼崎藩の行動を監視し、攻撃に備えよと言う内容の勅命が出た。

* * *

尼崎藩は大阪城の西の守りとして西国街道の要衝をしめ、かつ海上の要所であるため、ここの城主には旗本や徳川家ゆかりの大名を配置してきた。
江戸中期より三河桜井の同一家門の松平姓の藩主が封じられてきている。

西国より倒幕軍(官軍)が西国街道を経て東征するには、西宮、尼崎と通らねばならないが、西国街道に面している西宮、尼崎を治めていた親藩松平氏の尼崎藩の動きが気になった。尼崎藩は第一次、二次の長州征伐のおりにも積極的に佐幕派の立場を固辞して協力した。
そこで、朝廷はこれをけん制するため、急遽備前岡山藩へ西宮地区を警備するように命じたわけである。
 

 * * 運命の岐路・大蔵谷 * *
 

勅命に従い、岡山藩は慶応4年(1867年)正月より、約二千人の藩兵を5班に分けて順次出発させることになった。

一番隊、二番隊につづいて、家老日置帯刀(へきたてわき)率いる大砲隊150名を含む350からなる三番隊が1月4日(西暦1868年1月28日)岡山を出発し、1月10日には明石大蔵谷に着き、ここで宿泊した。

ここ大蔵谷は西国街道から大名行列や武者行列用として、外人とのトラブルを避けるために幕府が突貫工事で施工した西国街道往還付替道の分岐点となる場所である。 

後の事件のことを考えると、正に運命の分かれ道になった大蔵谷である。

ここに、この岐路に立たされることになる二人の人物が登場する。

一人は三番隊を率いる家老日置帯刀(41歳)である。
彼は岡山県御津町に陣屋を置く所領1万6000石の国持ち家老である。当時一万石以上は大名である。元々池田家より日置家に家督をついできたため大名並の待遇が与えられている。
ここ大蔵谷で、日置帯刀は運命の選択をすることになる。

このとき、兵庫奉行の柴田剛中が武行列のために、わざわざ造った大蔵谷からの迂回路を通っておれば事件は生じなかったと言えるのだが、いやそれとも、直前の幕府崩壊で関係者は離散したため、迂回路の存在の情報は伝わってなかったのであろうか。

あるいは、日置隊は野戦砲6門を運搬しており、とても険しい山道の迂回路を通るのは困難であることや、第一、一番隊、二番隊は難なく西宮に到着していることから、たとえ、この迂回路の存在を知っていたとしても、問題なく通過できると考えていたのだろうか。

これについて彼がどのように判断したのか、彼の記録が残されていないので全く分からない。しかし結果は最悪の選択となり、後に生じた事件の責任をとって彼は謹慎処分となり、側近の部下が切腹させられることになるとは思いもしなかったことであろう。

もう一人は、この事件で悲劇の主人公となる瀧善三郎(31歳)である。
彼は日置家馬回り役の5人扶持の家来である。
馬回り役とは戦になれば馬上の主の周り(側近)にいて主を守る役である。よほど家老から信頼されていたのであろう。
また彼は岡山藩からみると家来の家来であるから、厳密に言うと岡山藩直属の藩士ではなく陪臣である。
現代風にいえば親会社の社員ではなく子会社の社員にあたる。

瀧は文武両道を極め、小野派一刀流の剣と槍を習得し、砲術にも長じていたのみならず和歌、謡曲を好んでいた。また、兄とともに京都に出て天下の志士と交わり、備前藩内で将来を嘱望される人物の一人と言われ、17歳のときより家老日置の側近として仕えた。

今回の日置隊では、先頭から3番目の大砲隊を率いる隊長として参加していた。先頭の隊列は善三郎の兄の瀧源六郎が率いていた。
 

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善三郎は大蔵谷の宿舎で、自分が運命の岐路に立たされ二度と岡山に帰ることがないとは、夢にも思わなかったに違いない。
翌日はいよいよ屯営地となっている深江村である。岡山に残してきた妻、娘(3歳)、長男(1歳)のことを夢見ながら、厳寒の1月11日(現在の1月下旬)、夜の深い眠りについたのであろう。
 

(その8:終)

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