#59《神戸三宮の残念様(神戸事件:その7)》              
                                      
                                                             2010.12.19
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兵庫開港とクーデター

開港日の少し前の10月14日(慶応3年)、倒幕活動が高まる中、慶喜は大政奉還という奇手にでた。

朝命という大義名分を得ながら実行した第二次長州征伐は大失敗におわり、図らずも幕藩体制の弱さを露呈することになり、倒幕派を勢いづかせ、長州と薩摩に倒幕の密勅が下された。

これを知った慶喜は先手をとって大政奉還した。つまり『政権を朝廷に全て返上しますから今後は朝廷で政治をしてほしい』という捨て身の戦法にでた。

慶喜の狙いは、薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている。

この大政奉還は坂本龍馬の現案をもとに、後藤正二郎(土佐藩士)が藩主山内容堂に献言し、建白書として幕府に提出されていたものである。
(備考:坂本龍馬はこの一月後の11月15日に京都近江屋で暗殺された)

この慶喜の突然の戦法には朝廷も大いに困り、実務は従来通り幕府に勅命で任せざるをえなかった。大政奉還によって成立したはずの新政体は行政組織や財源をもっておらず、有能な官僚組織を有する幕府に頼よわざるを得なかったのである。正に慶喜の思惑とおりの展開になり、以後、政局は慶喜に引きずられて右往左往するばかりで、殆どの大名も日和見を決め込んでしまった。

開港工事も今度は“勅命”で幕府方に任され、12月7日の開港に間に合うように続行して進められた。開港日まで波止場4箇所、運上所(税関)は完成したが、居留地は未完のままであった。
 

 * * 開 港 * *
 

12月7日の開港に合わせて、諸外国の軍艦も神戸に集結してきた。何度も先述べされてきた開港の見届けと威嚇のために集まってきたのである。

開港日(慶応3年12月7日:西暦1868年1月1日)を迎え、運上所(今の税関)において開港式典が行われ、港内に停泊している外国艦船より一斉に祝砲が鳴り響いた。

一方、市中は大政奉還により幕府の統制力が低下し、騒々しくなってきた。神戸にも開港を祝うように「えーじゃないか」の踊りの波が押し寄せて、町はあたかも大祭のように賑わった。
開港したとなると倒幕派は武力討伐という実力行使に出る他はない。

この開港の裏では倒幕に向けた工作が,この日に照準をおいて,岩倉具視等により密かに計画されていたのである。
 

 * 王政復古のクーデター * *
 

開港日に合わせて岩倉具視は密かに宮廷クーデターを計画していたのである。今日で言う官邸乗っ取りである。その決行は開港日の2日遅れの12月9日に決めていた。
まず翌日(8日)における朝議で、朝敵となっていた長州藩主毛利敬親の官位復活と入京許可、謹慎処分となっていた岩倉具視の処分の解除、三条実美ら追放されていた5人の公卿の赦免が決定された。
朝議が翌朝9日まで朝続き閉会し、倒幕派公家のみが残り、他は退出した。

正にその時である。御所を警護していた会津藩、桑名藩は警護から外されて、代わりに薩摩藩を主体とする倒幕派5藩の軍隊が御所に入り、御所の全ての門(9門)を閉じて警備つくと同時に、還俗したばかり岩倉具視が衣冠に正して参内、王政復古号令の案文を携えて天皇の拝謁し大改革を奏上したあと、一同は小御所へ移った。
そして、天皇が学問所に現れて「王政復古の大号令」が読み上げられた。(正に何処かの国のクーデターの映画かニュースを見ているようなスリル満点の展開である)

続いて、摂政、関白、征夷大将軍などの旧来の職は廃止され、かわりに総裁・議定・参与の3職が臨時で置かれることになり、その人事も倒幕派を主体にして決まった。ここに明治政府は誕生したのである。
 

* * 小御所会議 * *

この朝廷会議のあと、天皇臨席の下で新三職合同の小御所会議が行われ、徳川慶喜に対する「辞官・納地」が議題となったが、敬幕派の土佐藩主の山内容堂より「この席に大政奉還の英断をなされた慶喜公が居ないのは片手落ちである」との激しい反撃にあい、会議は山内容堂主導の展開となったが、つい調子にのり「・・幼沖を擁して、権柄を摂取せられたりや(幼い天皇を担いで陰謀を図っている)・・・」という失言を機に、岩倉具視の反撃が始まって局面が一転し、さらに室外の西郷の「短刀一本で片付く」という脅しの伝言で徳川家喜へ「辞官・納地」を命じることが決まった。

倒幕派としては、家喜が400万石の最大領主として残る限り、実質的な支配権もまた彼の手に保持されることを恐れ、辞官・納地は絶対に譲れない線であった。

「辞官・納地」の朝命を受けた慶喜は正式回答を保留して二条城から大阪城へ移った。朝命であるからと言って簡単にYESと回答すれば、何万という家来が動揺することは目に見えていたからである。
 

* * 家喜の巻き返し * *

クーデターは山内容堂を初めとする佐幕(敬幕、親幕)派大名を排除する形で成功した。

しかし、政府の実体は倒幕派大名連合が天皇の権威を借りるのみにとどまり、これまでの参与会議や四候会議と大して変わらないもので、絶対的な権力掌握には程遠い政府であった。徳川家が巨大な領地を有している限り、実質的な支配権を有しているとはいえなかった。

不思議なことに、新政府は行政組織が全くないので、大政奉還後も幕府崩壊まで旧幕府の官僚組織を利用していたのである。
 

* * *

そこで、倒幕派は武力により打倒して領地を取り上げる他はないと考えたわけであるが、政府内では、あくまでも幕府の武力打倒を主張する大久保利通(薩摩藩)と大政奉還後も徳川将軍家も諸侯として新政府参加を求める“公儀政体論”の後藤象二郎(土佐藩)が激しく対立した。

これは平和的に政治権力の再編成を行い、将軍家も諸侯として会議参加して国家改革の主導権を執る事を狙ったとされ、山内容堂・松平慶永ら諸侯らが支持され、公儀政体論が優勢になった。
また、他の藩の大名からもクーデターに対して異論を唱えるものが出てきた。

世襲制で地位が確保されている大名からみると、王政復古の大号令がでたからといって殿様という地位や領地を簡単に手放すわけにはいかないのである。

この勢いに朝廷も弱気になり、慶喜を新政府の議定のポストを与える代わりに、新政府の財源は徳川家の領地より賄かなう方向で検討を進めることになった。
この時点で慶喜の辞官・納地の命令は骨抜きになった。同時に今回の倒幕派によるクーデターは風化同然になってしまったのである。
 

* * *
 

大阪城に引き込んだ慶喜は仏公使の勧めで、六カ国代表に引見し、外交権は依然として自分の手にあることを通告した。そして仏より新式の銃を一万丁購入し、親藩、譜代の大名の幕臣達も続々と大阪城に集まってきた。

もし、慶喜が新政府(朝廷)により命じられて政府の一員である議定になれば、武力倒幕派にとっては“幕府は朝敵”などという倒幕の大義名分がなくなる上に、大きな領地を背景にして慶喜の発言力も増して、倒幕の機会は永久に得られないことになる恐れがある。
慶喜自身も“議定”に任命されたら、自分の思い通りの政権運営が出来き、そうなれば「薩長め、今に見ておれ」という気持ちを描いていたのかも知れない。
そのために、慶喜は薩長の挑発に乗ることだけは避け、じっと耐えて新政府(朝廷)より議定の任命が来るのをひたすら待つことにした。
 

* * 西郷の仕掛け * *
 

武力倒幕派にとっては、倒幕の機会が得られないで手詰まり状態となった。
そこで西郷隆盛は旧幕府方勢力を挑発し、幕府方と武力衝突の機会を作り出す作戦を仕掛ける。
それには将軍は大阪城にいるので、西郷は大阪から離れた江戸で騒ぎを起こす、いわゆる撹乱戦術を密かに考えた。
そして薩摩藩邸に浪人を駆り集めて、江戸市中で商家などを襲うなどの暴行を公然と演じさせ、市中警備に当たっていた庄内藩の屯所も襲撃した。
数々の暴行に、たまりかねた江戸城詰めの幕府幹部は襲撃の本拠地は薩摩藩邸であることが分かっていたので、庄内藩に命じて薩摩藩邸の焼き討ちを命じた。
慶応3年12月25日、幕府は江戸において薩摩藩へ攻撃を開始した。 三田の薩摩藩邸は焼かれ約50名が戦死し、100名が捕虜となった。
とうとう幕府側から薩摩藩へ戦を仕掛けてしまったのである。

この幕府の薩摩藩への攻撃を知った佐幕派の大名や旗本は興奮し、慎重派の制止を振り切って江戸から飛び出し「いいじゃないか」が乱舞する東海道を走り抜け、将軍のいる大阪城へわれ先に駆けつけた。大阪城の中は15,000人の佐幕派の藩兵、旗本などで溢れて、すっかり戦闘モードになった。
これで幕府側はみすみす西郷の思う壺にはまったわけである。
 

* * *
 

TVドラマなどでは、この焼き打ちの知らせを受けたときのシーンを、西郷は『うまくいった』と内心ほほ笑み、慶喜は『しまった』と歯ぎしりをした表情で表現している。

ここより、“激動の幕末”というドラマが終局に向かって急展開していくことになるのである。

(その7:終)

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