#58《神戸三宮の残念様(神戸事件:その6)》              
                                      
                                                             2010.12.18
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徳川道

兵庫開港の勅許が出たので、幕府は条約に従って、波止場や居留地などの開港に向けての工事を行うことになった。
約束した期限までは半年余を残すばかりである。突貫工事で行われた。
工事の奉行として柴田剛中が任命された。彼はかって幕府の使節団の一員として渡欧した経験があり、諸外国の港や都市をよく知っており適任であった。

開港を約束していた兵庫津と呼ばれていた兵庫の港は、北側の六甲山系の山と和田岬が、北風、西風、潮流を遮り、さらに水深が深いことから、風止まり潮止まりの天然の良港として昔より栄えてきた。
さらに江戸中期より日本海より米を運搬する北前船という大型船の出現で活気づき、幕府直轄の天領となり大阪奉行所の管轄下にあった。
 

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しかし、この港を外国に開港するとなると、この港はすでに出入りする船が多い上に、周りは当時2万人の人口密集地帯であり適さなかった。
この通商条約は我が国に裁判権がないなどの不平等条約であり、攘夷風潮が強い中にあって、在住の日本人とトラブルを生じやすいところは、避けねばならなかったからである。

そこで当初予定していた和田岬の西側ではなく、当時は人口疎らで神戸村と呼ばれていた東側の場所に移して開港することになった。
そして、神戸村の海岸に波止場をつくり居留地を西は鯉川(今の大丸西側の鯉川筋)から東は生田川(今のフラワーロード)の間で、北は西国街道(大昔は山陽道と呼んでいた)、南は海岸には囲まれた区域につくることになった。
この辺りは大雨になると山から流れてくる土砂で覆われ、当時の外国人がまるで競馬場のようだ、と言っていた位の一面砂地であった。
 

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ここで幕府方にはある懸念が生じた。
当時の西国街道は、今の元町商店街を経て大丸北側(今の三宮神社の前の道)を通っていたが、問題はこの居留地の北側が西国への幹線道路である西国街道に面していたことである。おまけに山と海の間が狭くて、東西に細長い地形である。

数年前、東海道沿いの生麦村において、この街道を通っていた大名行列を遮った英国人を殺傷して薩英戦争にまで至り、その結果として幕府は多額の賠償金を支払うことになった。

このため、当初開港を予定していた神奈川は東海道に面しており、トラブルを避けるため当時は辺鄙な横浜で開港した。

この事件の二の舞を避けるため、幕府は急ピッチで大名行列や、武士の行列などが迂回する道路をつくることになった。
迂回路については、神奈川の場合は三浦半島が控えていて南北に長く、南側は余裕があるが、神戸の場合は、東西に細長いという特異な地形で余裕はない上に、西国街道の北側(山の南側)は今後の拡張の地域として残しておく必要があり、山の裏側(北側)を通すことになった。

正式には“西国往還道付替”と言い、後に“徳川道”と呼ばれることになった迂回路
(バイパス )は、明石大蔵谷=高塚山=白川=藍那=小部=摩耶山裏=杣谷=石屋川に至る全長34kmの道のりである。

先日、49歩く会の森林公園紅葉ウォークの時に、リーダーの何君(2組)の案内で森林公園近くの徳川道を歩いてみた。

道も狭い上に結構アップダウンがあり、銃器など重い荷物を担いでの行軍はきつそうに思えた。

何君の話によると、とくに摩耶山裏=杣谷=石屋川の区間は急な坂の連続との事で、とても大筒を運ぶような道ではなさそうである。  

それにしても、本道である西国街道は兵庫から今の元町商店街を抜け、大丸前の三宮神社、生田筋、JR三宮南側のダイエー横を通る路であるから、この迂回路は随分山奥を通る道と言える。

これは南北に狭いという神戸特有の地形のため選択の余地がなかったのかもしれない。
 

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この工事は幕末の大激動の最中、突貫で行われた。そして開港日に合わせて何とか完成した。 
奉行の柴田剛中は『もうこれで生麦事件のような外国人とのトラブルは生じるはずはない』と思ったことであろう。

しかし現実は、彼が数万両をかけて造ったこの迂回路は使われず、不幸な結果を迎えるのである。
 

(その6:終)

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