#57《神戸三宮の残念様(神戸事件:その5)》               
                                      
                                                             2010.12.11
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兵庫開港の勅許(4)

慶応元年9月16日(1865年11月4日)、将軍徳川家茂は第二次長州征伐のために大阪城に滞在していた。 そこへ英、米、仏、蘭の連合艦隊が兵庫沖に現れた。
 

* * 4ヶ国連合艦隊の威圧 * *

4カ国は兵庫開港の早期開港と条約の勅許を得る交渉のために、将軍と天皇が同時にいる大阪湾に軍艦8隻を率いてきたわけである。異人を嫌う天皇及び朝廷は怯えた。

早速、幕府は老中阿部正外および松前崇広を派遣して交渉に当らせた。外国公使は「速やかに、兵庫開港の許可を出してほしい。確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」とおどした。外国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことにした。

この報告を受けた朝廷は激怒し、将軍徳川家茂へ老中阿部正外および松前崇広の罷免の朝命を出した。将軍の臣下の老中が朝廷の命で処分されるのは前代未聞のことである。家茂はやむを得ず老中2名を免職にし、そして条約勅許(井伊直弼が締結して以来、不勅許のままであった)と兵庫開港の勅許を奏請したのち自らも将軍職の辞表を出した。
これは家定の開き直りである。「もし4カ国の代表が軍隊を連れて、京に上って直接交渉することになっても、私は辞めますので朝廷で対処してください」という戦法に出たわけである。

将軍の辞表にあわてたのは朝廷である。
早速、在京の諸藩の意見を聞いて、慶応元年10月5日井伊直弼が締結していた安政5カ国条約に正式に勅許を与えたが、兵庫早期開港については、またも不許可にした。  
外国側は兵庫の早期開港は実現できなかったが、条約が正式に天皇より許可されたことに満足して艦隊を引き上げた。

この時点で、安政の5カ国条約のうち、“兵庫開港”のみが未許可として残った。
倒幕派にとっての切り札(カード)の「兵庫開港阻止」は依然として残り、これを目標として、引き続き反幕運動を繰り広げるのである。
 

* * 兵庫開港の勅許を得る * *

将軍が家茂から慶喜となっていた。朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、なお兵庫開港については勅許を与えていない。そこで慶喜は朝廷に勅許を求めた。

   慶応3年3月5日(1867年4月9日):兵庫開港(同年12月7日開港を約定)の勅許を奏請同年3月19日:不許可

   慶応3年3月26日(1867年4月26日):再び兵庫開港(同年12月7日開港を約定)の勅許を奏請。同年3月29日:不許可

正しく、幕府に対するいじめと言わざるを得ないような不許可が続いた。 

開港の約束日まで刻々と日が迫ってくる。条約の規定には開港日までに岸壁、居留地など、準備する項目が山ほどある。
このままでは、いたずらに無駄な日が過ぎ去るのみである。

そこで彼は英、仏、蘭3国を大阪城に呼んで、約束通り慶応3年12月7日(1867年1月1日)に兵庫港を開港することを、勅許を待たずに約束する。 

そして自ら朝廷に乗り込み兵庫開港の勅許を奏請した。論戦に論戦を重ねて朝廷から勅許を得ることに成功する(慶応3年5月23日:1867623日)。

これは諸外国と約束した期日(慶応3年12月7日:186811日)の約6カ月前である。
こうして、紆余曲折の結果、ようやく兵庫開港は勅許を得たのである。
 

* * *

この慶応3年12月7日は最初の取り決めから10年も延びた期日であり、このため神奈川(実際は横浜港)より兵庫港(実際は神戸港)が、実に10年遅れて開港することとなった。
5月から、開港を約束した12月まで約半年の間に、条約に基づき岸壁と居留地などの工事を突貫工事で進めなければならなかった。

この一方では兵庫港の非開港を合言葉にしていた攘夷派は、勅許が出た以上はその目標がなくなり、今度は開港日に合わせて武力による倒幕運動を急速に走らせることになった。権謀化の岩倉具視はこの開港日を目標として、仰天するような計画を密かに練っていたのである。
そして、この兵庫開港日が徳川幕府の終焉日になろうとは、この時点で徳川慶喜は思いもよらなかったに違いない。
 

(その5:終)

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