#56《神戸三宮の残念様(神戸事件:その4)》               
                                      
                                                             2010.12.05
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兵庫開港の勅許(3)

公家史上稀有の権謀家とは公家の岩倉具視である。彼は失脚、復権を繰り返しながら歴史の表裏に登場し、結果的には彼の筋書き通りになった。
 

* * 権謀家:岩倉具視の登場 * *

彼は“通商条約問題”こそが、朝廷が幕府から権力を奪う最大の機会と考え、次のように動いた。
通商条約調印については、朝廷の意向として外交については幕府に委任するという勅錠(天皇の仰せ)で当初決まっていた。これを88名の公卿達を説得して取り消させた。

そして、「幕府が御三家(尾張、水戸、紀伊)と諸大名の意見を質した上で改めて勅許を求めるように」と勅錠を変更させた。朝廷だけの意見では「大政委任論」を持ち出されて無視される恐れがある、そこで御三家、全諸侯の意見が必要だと言わした。

当然、岩倉具視は御三家や諸大名には意見として“勅許”が必要との根回しをしており、その裏では勅許の奏上(申請)があっても不許可することを決めていた。 正に用意周到である。           

つまり、「勅許」の件を政治問題として拡大させる(重みをもたせる)ことで、幕府を苦境に立たせて、朝廷の復権を図ろうと考えていたのである。
 

* * *

そして前述(#54)したとおり、裏で「不許可」が決まっているところへ、KYの老中堀田正睦が御三家や諸大名の意見を聞いてから、朝廷に「勅許」を求めてきて断られてしまい、以後どうすることもできず失脚してしまった。まんまと岩倉具視の術中にはまってしまったわけである。

当時の天皇に唯一残されていたのが“勅許の授与の権限”であり、この権限を逆さにとって、権力の回復を計ろうとしたのである。これより朝廷側が権力回復をねらって「勅許」という名の武器を最大限に活用して反幕的な態度を鮮明にしていく。
この反幕的な動きが加速して行くきっかけが、朝廷が「我が国は神州である」といって外国との交渉を嫌う“通商条約”だったというのも、皮肉なものである。
 

* * *

認可が得られない勅許をいつまでも議論していても、無駄な時間が過ぎるのみである。対外的危機意識が高まる情勢の中においては、現実的で、かつ臨機応変に対処しなければならない。そこで、この「勅許」を無視した人物が現れて、この情勢は一気に変化する。
安政5年4月、老中堀田正睦の後、彦根藩主井伊直弼が大老に就任したのである。
 

* * 井伊直弼の登場 * *

彼は、この国を統治しているのは幕府であるといって、安政5年6月19日、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、開国を断行した。                                            次いでイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、これらは「安政五カ国条約」と呼ばれている。

調印した条約に基づき、横浜港(条約では神奈川)の安政6年6月2日(1859年7月1日)横浜港は開港し貿易を開始した。同じく長崎、新潟と順に開港しすることになっており、兵庫は1863年1月1日に開港の約定となっていた。

この勅許を待たずに調印したこと(違勅)で水戸藩主の徳川斉昭は「天皇に対して不敬」であるといって激しく抗議した。徳川斉昭は「我国の代表は天皇であり、あくまでも勅許をえるのが建前である。もし相手が武力でくれば武力で対抗すれば良い(攘夷)」との主張を繰り返した。

老中水野忠邦までは、政治は全て老中・若年寄等の執行部のみで行ってきたが。老中安部正弘のときから、水戸藩、薩摩藩、土佐藩、福井藩など藩主からも広く意見をきくことにした。このときに尊王派の水戸藩主より「朝廷を大事に取り扱うように」言われるなど、安部正弘の広く意見を聞くという政策は、かえって水戸、薩摩、土佐、福井などの藩が政権に意見する機会を与えることになり、この頃から幕府の政権運営はおかしくなってきた。

井伊直弼は徳川幕府による国政の威信回復のため、水戸藩、土佐藩などの藩主などを謹慎させ、反対派に対して容赦のない取り締まりを行った。とくに朝廷が水戸藩主に下した勅錠を巡って、水戸藩に対しては徹底的な弾圧が行われた(安政の大獄)。
結局これが命取りとなり、安政7年(1860年)、井伊直弼は皮肉にも同じ徳川家門の水戸藩の浪士に襲撃されて命を落としてしまった。

この後、公武合体論争がもちあがり政局は混迷を深めていった。水戸藩も悲劇の展開となった。藩内で保守派、革新派に分かれて激しい闘争を繰り広げ、この闘争の中で多くの人材をうしなった。折角、藩校の弘道館を設立して有能な人材を育てていたのに、明治維新のときに活躍すべき人材は殆ど藩内の抗争で自滅していた。
 

* * 異人嫌いの孝明天皇 * *

現在“異人”とは異邦人即ち外国人のことを意味するが、当時は漢字の意味の通り“人とは異なる”、“人にあらず”という意味合いであった。
“紅毛青目”の外国人をみて、人間ではないと思ったに違いない。天皇を含め朝廷には「我国は神国であり、野蛮な夷に汚されてはならない」という甚だ偏狭な考えがまかり通っていた。そして朝廷は幕府に対して攘夷の決行を何度も催促し、幕府を困らせていた。

兵庫港開港は畿内という京都を中心とした圏内にあり、外国を嫌う攘夷思想の持ち主の孝明天皇にとっては、到底受け入れ難いもので、なかなか開港の勅許が得られなかった。
そこで幕府の欧州使節団は諸外国と交渉し、5年延長(1868年1月1日まで)してもらうことに成功するが、これもこの天皇の存在でどうなるか分からない状態であった。
 

* * 最後の切り札:兵庫開港 * *

攘夷派にとっては、幕府が勅許なしに諸外国と条約を結んだと言え、既に横浜、長崎は開港したので、残された兵庫港の開港阻止のみが政争の最後の切り札となった。
しかし、兵庫開港まではまだまだ道のりは遠い。
 

(その4:終)

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