#55《神戸三宮の残念様(神戸事件:その3)》               
                                      
                                                             2010.12.01
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兵庫開港の勅許(2)

国語辞典(新潮国語辞典)によると、   
『「勅」とは天子(天皇)が下す命令の一つ。改元などの大事の命令は「詔」を用い、それ以下の小事の命令は「勅」を用いる。』とあり、「勅許」は天子(天皇)が許可を下すことを意味する。                       
「勅許」という言葉は、天皇が統治していた時代に使われていたもので、武士が朝廷から統治権を奪ってからは余り重要な意味を持たなかった。
ハリスの日米修好通商条約締結要求から最終段階の兵庫開港までの約10年間「勅許」と言う言葉を巡って政局は転々としていった。
この問題の理解を深めるために幕府と朝廷の力関系の推移を整理して述べたい。
 

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永く続いた武家の時代において、何度も天下人は入れ替わるが、その時の権力者は朝廷を征伐したり廃止するのではなく、むしろ存続させ“権威”を利用していた。これが中国や諸外国では権力を奪ったものが全てを征伐し,自ら皇帝や王を名乗り、軍事、政事など全てを一元で支配していたのとは大いに異なっている。

徳川幕府においても、国学、神道好きの徳川家康は朝廷の存続を認め、幕藩体制の維持に朝廷の持つ伝統的・宗教的権威を利用していた。
即ち、実質的な支配者としての「将軍」と伝統的な権威者「天皇」の2つの君主の並立を容認していた。

また、幕藩体制は徳川家系の存続を目的とした体制であり、何事も徳川家を第一とする「徳川絶対主義」であるから天皇の権威を他者に利用されないことが必要である。
このため公家を御所の周りに住ませて保護するかわりに「禁中並びに公家諸法度」を定めて天子(天皇)の行動を規制していた。その法度の中で「天子、諸芸能のこと。第一ご学問なり」と規定し、天皇のすべき業務は改元、武家に対する官位の授与ぐらいなものに規定され、朝廷の任命権などの重要な権限は全て幕府がもっており、政事については口出しを一切させなかった。勿論「勅許」は幕府の命令より下に扱われていた。
そして京都所司代を設けて朝廷を厳しく監視していた。

江戸中期に「“征夷大将軍”とは天子の臣下である」との称号・官位からくる君臣の序列の矛盾がでてきたが、「官位上は臣下であるが政事は全て征夷大将軍に委任されているので、朝廷は政事に口を出すべきではなく、学問だけに専念されたし」という「大政委任論」が慣行となり、幕府のみで政事が行われていた。
 

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やがて、磐石のはずの幕藩体制も250年もの長い間続くと終盤には陰り(矛盾と行き詰まり)が出てきた。
まず、経済の行き詰まりが挙げられる。

  鎖国という政策をとって、島国の限られたスペースの中に閉じ込めておいて、将軍即ち徳川の家系を守るために巧妙に考え出された幕藩体制という凍結した制度では経済が成りたたくなってきた。

  第一に人口の増大。これは自然の勢いである。この場合、スペースの確保で海外に活路(領土拡大・交易)に見出すかなどであるが、鎖国政策や凍結した制度ではそれに対応するのが不可能であった。

  たびたび、幕府は是正策を打ち出したが、せいぜい新田の開発、消費抑制のための節約の強要、即物的な人口調整に留まっており、幕藩体制の根本的見直し、規制の緩和などの抜本的対策をとらなかった。有名な享保、天保などの改革はミクロ的には一時的に成功したが、後生の経済学者がこれらの改革を“合成の誤謬”と表現するぐらいマクロ的には成功しなかった。

  農民は米を藩に年貢として納め、また武士には給与として米を現物支給(俸禄米)していた。他の生活物資を購入する場合には米を現金に換えなければならないが、その米価に比べて他の諸物価は高騰していった。即ち米価が相対的に下落していった。このため年貢米を換金して消費的物資を買う武士階級、即ち、幕府、旗本、諸大名にとっては収支のバランスを狂わせた。幕末には殆どの藩の財政は悪化し破綻状態になっていた。その悪化は直接に武士の生活を脅かせた。

このような経済事情の悪化で、幕府の存在を根本から見直すような機運が、諸侯や地方の武士の間に高まってきた。
 

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次に、思想・考え方の変化である。

  徳川幕府は幕藩体制を維持のために、武断政策から儒教、国学を取り入れた文治政策に方針を変えた。そして儒教では朱子学が官学として奨励された。

  朱子学は中国宋時代に朱熹により考え出された思想で、 上下関係、正統性・非正当性などの秩序を問う学問で、幕藩体制の維持には都合が良かったのである。

  幕府開設以来200年以上も教育されると、諸藩の藩主、武士達は朱子学という、言わば宗教みたいなものに、すっかり洗脳されてDNAとして体質に組み込まれてしまっていた。(また同時に、朱子学の持つ副作用、即ち現実論よりも建前論重視という副作用も受け継いでいった。作家司馬遼太郎に言わせれば、この副作用は明治の時代を通り越して第二次世界大戦までの軍部の中に残っていたという。これは余談であるが・・)

  さらに、この朱子学の思想で書かれている「太平記」(後醍醐天皇方の楠木正成等は官軍、幕府側の足利尊氏は賊軍で書かれている)も庶民の間で広く読まれ、人々の目を朝廷に向けさせることになっていた。

  すると、本来朝廷が執るべき政治を幕府が壟断したことよって、今日混乱を生じているとの理解が生じ尊王思想が浸透していった。

このように、経済的な行き詰まりで苦しんでいる状況の中で、外国からの開国の圧力も加わると人々も目覚め、幕府の存在を根本から見直す機運も高まってきた。
そして幕府に代わる新しい仕組みとして、天皇を中心とした体制の方に、人々の考えは傾いていった。
 

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1853年にペリーが来航してから幕府崩壊までの15年間は正に激動の時代であった。日本国中の大小の藩の中で、尊皇、佐(敬)幕、攘夷、開国など相反する主張についての論争が繰り広げられた。

それらは天秤が力の大きさで右や左に傾くように、諸藩の中でもその時の勢力や藩主の考え方の変化で右に傾き、次に左に傾きと変遷を繰り返し、その力学的モーメントが、やがて合流して大きなモーメントとなって国を動かしていった。

この動きの流れの中に、西郷隆盛、坂本竜馬などの英傑が活躍した。歴史小説家には題材に事欠かない時代でもある。
 

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さて本題に戻って、このような世の中の空気の流れを読み取り、武士に奪われていた権力を取りもどそうと考えた公家史上稀有の権謀家が登場する。そして、この権謀家が考えた筋書き通りに歴史は展開するのである。
 

(その3:終)

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