#54《神戸三宮の残念様(神戸事件:その2)》               
                                      
                                                             2010.11.19
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兵庫開港の勅許(1)

この話(事件)は、後世になって徳川幕府末期と言われることになる安政年間に、米国の総領事ハリスが下田にやって来たときからスタートする。

彼は日米和親条約に次いで通商条約を結ぶよう幕府と交渉する。この通商条約ともなると、交易がメインの条約である。すでに開港が約束されている函館と下田では辺境の地であり、余りにも商業地からかけ離れている。交易のためにはどうしても江戸と第二の都市、大阪の大商業都市に開市と開港することが必要となる。
そして大阪の開港地として大阪か堺を提案する。

江戸はともかく、大阪は京都(朝廷)に近く、堺も大阪に近い上、陵墓も多く、攘夷思想の強い朝廷には到底受け入れがたいと予測された。そこで幕府側の代表は水深があり、大型船の入港に適した兵庫港ではどうかと提案する。             
そして、ハリスは開港地として兵庫開港を条約に盛り込んだ。

ハリスが提示した通商条約の主な項目は下記である。               1)下田・箱館に加え神奈川・長崎・新潟・兵庫の4港と江戸・大坂の2市を開く事。 
2)自由貿易を認め、開港場に居留地を設けること。
3)居留地内では領事裁判権(治外法権)を認めること。
4)関税は両国が協定して決める協定関税とすること(関税自主権の放棄)。

特に(3)と(4)については日米和親条約よりもさらに踏み込んだ不平等条約であり、明治時代になっても大きな問題を残した項目である。
そして、ここで初めて外交交渉の中で“兵庫”という名が文書の中で出てくる。

この“兵庫開港”という問題が、後に幕府崩壊まで、開国派、攘夷派、倒幕派などの政争の争点になるとは、この時点では誰も予想しなかったに違いない。

そして意外なことであるが、我が母校“兵庫”の名のルーツも、この不平等条約が少なからず関係しているのである。
 

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ハリスは何度も幕府側に条約を調印するように催促するが、朝廷の許可が得られないとの理由で、先送りされ続けていた。
冒頭に、この時代を“幕末”と言ったが、もちろん、当の幕府担当者は幕府という政権は永遠に続くと考えていた。しかし、鎖国という政策をとり250余年もの長い間外国との接触を断ち、ゆりかご同然となった島国の中で、泰平の世にすっかり慣れてしまい、対外的な対応は全く鈍くなり、なかなか決められないで先送りを繰り返していた。
ところが、隣の清国で発生した事件で事態は急転する。                       

アロー号事件で清と交戦中だったイギリスとフランスの連合軍が「清を打ち破って天津条約を結び、そのまま日本へ向かうかもしれない」という情報をハリスがもたらし、日本が攻撃から巻き込まれないためには早く米国と通商条約を締結したほうが良いとの脅しに似た催促で状況は一変した。

時の老中首座(筆頭)の堀田正睦は、幕府は条約を結ぶ他ないと考えたが、攘夷論が高まる中で単独で調印する自信がなく、全国の諸大名・幕臣に意見をきいた。
今でいうアンケート調査である。過激な攘夷論もあったが、開国やむなしなど答申が多く、問題は諸大名の多くが朝廷に奏上し“勅許”を受けよと答えたことである。
                               
そこで、幕府は1858年(安政5年)1月、堀田正睦は政権を預かっている最高の地位(TOP)である自分が朝廷と直接交渉すれば、勅許 は容易に得られると考えて上京したが、天皇は条約の調印を拒否するようにと回答した。
幕府開設以来、勅許というのは単なる形式上の事後承認事項と思っていたのが、朝廷により初めて蹴られたのである。
正に幕府の権威喪失である。
 

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これは明らかに、老中堀田正睦の初歩的(あるいは初動の)ミスであった。
元来、政事については大政委任論(後述)に示すように、慣行として幕府に任されているので、諸藩に意見を聞く必要もなく、また朝廷からの勅許を得ることなく、先の日米和親条約のように幕府の裁量により堀田正睦自身が決断(英断)して決めれば良かったのである。この当時の幕府はまだ反対派を押さえるに十分過ぎる力(武力においても)を有しており、朝廷も幕府が決めたことにはとても口出しできる状況ではなかった。

ところが、堀田正睦は筆頭老中である自分が直接朝廷と交渉に当たれば、相手も敬意を払い、簡単に勅許が得られるものと安易に考えて上京し、自から交渉に当ったが、これがものの見事見当が外れて、以後の対応も迷走し、結果、彼は失脚した。

もし、彼が決断し条約を締結しておけば、後の幕府の政権運営も混乱することはなく、不幸な安政の大獄、兵庫の開港問題、神戸事件などはおこらなかったに違いない。
 

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余談となるが、東大の山内昌之・堀田正雄両教授はHP[幕末から学ぶ現在(いま)]の中で『最近の某首相が沖縄米軍基地交渉で、本来、妥協のメドがつく前までは大臣以下に任すべきところを、首相自から乗り込んで交渉にあたれば一気に解決すると思い、大した腹案も持たない状況で、もめている沖縄に乗り込んで交渉し、かえって収拾の取れないぐらい混乱し、その後の発言も迷走に迷走を重ね、終いには辞任に追い込まれた』ことを捉え、歴史から学ぶことの大切さの例として、幕末の堀田正睦と同じ過ちをした某首相の交渉のやり方を取り上げている。(もっともこのとき、某首相は前政権の時に日米間でぼぼ合意ができていた案に沿った方針でいけば良かったのであるが、政権交代したからといって振り出しに戻してしまったという初歩的ミスがあり、さらに交渉術の甘さ、幼稚さが目立った)

相手がいる場合の対外交渉においては、TOPにあるものが最初から交渉にあたる場合、事がうまく行けば良いが、一旦しくじると収拾が取れなくなり万事休止である(もはや方向転換、再検討、出直し、幕引き等を指示する者がいない)。

TOPの資質による失政・失敗。これは政治や企業などにおいて、何時の世にあっても生じている。
その場合、TOPはその座を降りれば良いが、迷惑するのは末端の国民であり、会社従業員であるというのは昔も今も変わらない。
 

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話をもどして、老中堀田正睦の交渉の失敗で、尊王攘夷派を益々勢いつかせることになり、朝廷は“勅許授与の権限”という無形の力を得ることになった。

正に、老中堀田正睦のこのときの交渉失敗が、幕府と朝廷の力のバランスが朝廷の方に傾けかけることになるという切所となった。
そして、これより“勅許”という漢字2文字からなる言葉がパワーを持って一人歩きし、徳川幕府はそれに大いに振り回されることになるのである。
 

(その2:終)

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