#52《どうでもよか話B》               
                                      
                                                             2010.11.05
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JR神戸駅の話(その 3)
 

ついでに、同じように、神戸特有の地形がなした港の話を述べてみたい。
 

* * 天然の良港 * *
 

兵庫港は、古くは大輪田泊と呼ばれた天然の良港で、遣唐使、宋貿易、明貿易等で栄えた。では天然の良港は何かということを考えてみたい。

どこにでも着ける小舟はともかく大型の船にとっての良港の条件を列記して見ると、
まず、大型船は喫水が大きくなるので、船底が海底に接触しないよう十分な水深があ ること。
船は人や物を輸送するので、まず陸地から余り離れていないこと。 そのためには遠浅ではなく急に深くなることがのぞましい。
風や潮の流れがあると流されてしまうので、防風や潮止まりのあるところ。
大型の船は沖に錨を下ろして係留し、小舟に移し替えて荷物を輸送していた。海底の土質が柔らかいと錨の把持力がなく、風や潮流で走錨しやすくなり船が流される。そこで海底の土質は適度な硬さがあること。
等である。

これを兵庫・神戸港との比較のために、大商業都市の(昔の)大阪沖を例にして先に検証してみると、
★大阪は、大きな川である淀川が運んできた砂が堆積してできたデルタ地帯の都市である。したがって、海は遠浅となり船の係留地点は陸揚げ地から遠く離れて場所となる。 自ずとして堂島川など川岸を利用する小舟での運搬が主体となり、小舟では大量の貨物も運搬することはできない。
また川は絶えず上流より土砂が流されてきて堆積し、小舟でも運航できなくなるので、絶えず改修しなければならない。大阪でも天保年間に大掛かりな改修が行われ、廃棄土砂で小高い山をなしたぐらいである(天保山)
★大阪沖は風を遮る山もなく、潮流を止める湾はなく、また海底も上流から運ばれてくる細かい砂で柔らかくて錨が流されやすく、とても沖に係留するのにも適していない。
 

* * *

これに比べると、兵庫の港は和田岬があり潮流、風は北西に対しては和田岬や六甲の山があり、急に深く陸地から近く、また海底の土質も硬く係留に適している。正に、この港は自然の地形がなした自然の良港であった。

このため、兵庫の港は江戸中期に、北前船という日本海から米などを直接輸送できる大型の船の出現で、大型船に適した兵庫の港が栄えた。幕府も豊かな兵庫港からの上納金を期待して、尼崎藩から切り離して幕府直轄の天領とし、大阪奉行所の管轄下におかれた。

大阪という大商業都市に近く、大型船に適した港であることで、徳川幕府は諸外国との通商条約で、この兵庫(神戸)を開港地として提案して条約の中で規定し、後に明治新政府に引き継がれ、神戸港は大阪の外港として、居留地を中心に爆発的な発展を遂げていった。
そして、1突、2突・・・ などの、倉庫を備え、直接接岸できる埠頭や防波堤等の港湾工事が進められ、戦前は東洋一の貨物量を扱う大貿易港となり、商社、貿易業者、船社、銀行などが相次いで事務所や店を出し、人口も急増し、神戸の街は栄えた。
この時点で、神戸は“素通りの街”“通過するだけの街”から自から根を下ろして繁栄する街になった。

しかし、戦後、各都市で沖合を埋め立てて大型船が接岸できる岸壁や防波堤を有した港ができると、神戸港の単に水深が深い、潮止まりがあるという天然の良港の条件は余り関係がなくなり、物流の流れやアクセスが良いということ等が良港の条件となって、神戸港の地位は次第に低下していった。
次に輸送システムの変化である。従来、雑貨物は一般貨物船(General Cargo Ship)という種類の船により、本船か岸壁のクレーンで荷物の積み出し・積み下ろし作業をしていたが、現在は殆どの荷物はコンテナで運搬されるようになった。
このため、1突、2突などのように、コンテナクレーンの無い岸壁での荷役は殆ど行われなくなった。

神戸港では埋め立て地のポートアイランドや六甲アイランドにコンテナ専用埠頭で荷役を行っており、現在、このコンテナの取扱量が港のサイズの指標となっている。

先の震災前までは神戸港はコンテナの取扱量が日本一、世界4番目といわれたが、今は世界で50番目前後、国内でも20番目前後であり、もはや“港町神戸”というのは恥ずかしい位急速に落ち込んでいる。
数千個のコンテナ積載できるコンテナ船も、神戸に入港しても僅かな数のコンテナを積み込み・積み下ろし、短時間で出港している。

JR神戸駅が通過駅のようになっているように、海上でも通過駅同然となっているのである。
そして、街からも関連のOFFICE、店が大阪、東京へと沢山移動し、まるで神戸という街全体が通過駅のようになりつつある。
 

* * 街が通過駅にならないために * *
 

昔、京都を中心して畿内と呼ばれていた圏内の西端の守りのため須磨に関所がおかれ、この狭い場所で源平の戦い南北朝時代の足利尊氏と楠正成との戦場となっているなど、山と海に囲まれ非常に狭くて細長いという地形は、交通のみならず、戦略的にも要所となっていた。
しかしながら、要所というだけで、細長い地形を人馬や物が東から西へ、西から東へと素通り(通過)するのみであり、この街が栄えたことは長らくなかった。

それが明治時代に入ってから、“大貿易港”という人と物を呼び込むエンジンを得たこと、同時にそれが人を定着させる錨(アンカー)になったことで、単に細長い地形のみが特徴の神戸の街は、“素通り”、“通過”の街から大きく変貌を遂げた。

しかし近年、“大貿易港”というエンジンの馬力が急速に衰えるにつれ、人を呼び込み、定着させる力も衰え、さらに新たなエンジンが見当たらず、神戸の街も明治以前の人や物が素通りするだけの街に戻ろうとしている。

今後、神戸の街をどのようにすれば良いか、今のエンジンを修復して回復力をつけさせるべきか、あるいは新らたなエンジンを探し求めた方が良いか等、これは国、県、市などの行政機関は勿論のこと、市民も一緒になって考える時期になっているように思える。
 

* * *

今回、気になっていた、どうでもよいことを調べるために、何度も図書館通いをして、そのメモ書きや思いついたことを綴っているうちに、いつの間にか長文になり、文体も学術論文みたいになってしまった。
そして過日、大阪駅から神戸方面に帰ろうとしたら、ホーム案内に”JR神戸線”、”JR京都線”という表示を発見。”この路線は一体何? その定義は? どの駅からどこの駅まで?”と、又どうでも良いことが気になってきた。やれやれ、私もこの歳になって”鉄男君仲間”に少し足を踏み入れるぐらい、暇人になってきたようである。
 

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