#50《どうでもよか話@》               
                                      
                                                             2010.11.03
                                                   (写真をクリックすると拡大)

JR神戸駅の話(その 1)
 

中学になって、九州より移り住んで神戸人となった私が、長い間不思議に思っていたこととして、なぜ東海道本線の終着駅は“神戸駅”で、また山陽本線の始発駅が“神戸駅”であるかということである。
普通、鉄道路線名は、始発駅・終着駅などの路線の起点となる駅か、あるいは分岐する路線のある駅が普通であるが、神戸駅は分岐する支線もなく、単なる通過駅にしか過ぎない。これが不思議でならなかった。

そのうちに、昔は神戸駅と兵庫駅の間は繋がっておらず、神戸駅は東海道本線の本当の終着駅であり、さらに山陽本線の始発駅は神戸駅ではなく隣の兵庫駅であったということを知ったが、それでは何故、二つの駅は繋がっていなかったったかについての疑問は依然として残っていた。


この知ったところで、何の役にも立たず、どうでもよか(よい)事を、忙しさに紛れて長い間すっかり忘れていたが、暇になったせいか、ふと思い出し調べてみることにした。

そして、調べていくうちに二つの駅が繋がっていなかったのは両駅間を流れていた“湊川”の存在が原因となっており、さらにこれは神戸特有の地形によることを知った。 
この何にも役に立たず、どうでも良いことで、分かったことを述べてみたい。
 

* * 川のない街、神戸 * *
 

神戸は背後に六甲山系の山々が連なり、そのすぐ南側には海岸がせまり、この山と海に囲まれ、東西に細長く伸びた地形の中に町をなし、どこからも山が見え海も見える、住みやすい街である。
ところが、他の街に住んだものからみると、神戸という街は不思議な街であることに気がつく。“川”というものがないのである。
大阪、京都、名古屋、広島、東京と言った大都市には、その街の象徴となり風景となる豊かな水を湛えて流れる、名だたる川があり、その川から様々な恩恵をうけ、川で舟を浮かべ、泳ぎ、魚釣りなどして遊び、後にその思い出を語る川というものがあるが、神戸では川と言えるべきものがないのである。

そして神戸育ちの人々の思い出を語る会話の中では、泳ぐのは海、釣りは溜池か海であり、“川で・・”という言葉は出てこない。
 

    * * *

表六甲と呼ばれている六甲山系の南側には24の川と名のついた河川が山から海へ流れている。
川と言っても、川の長さを他の都市の川に比べたら、大人と子供、いや子供以下と言える位の短い長さの川が南北に流れており、川の長さが短い分、集める水の量も少ないので水量もすくない。

今では、神戸の川は少しの水が流れているが、明治の頃は普段は殆ど水は流れておらず、大雨になると、山から大量の水を集めて、細い幅の川に流れ込んで水嵩が急に増し(鉄砲水)、時には大きな水害をもたらしていた。

昔の神戸の人は『川に水が出た』と言えば、災害を意味し、避難の準備に取り掛かったそうである。まさしく、川は大雨の時の排水のためにあると捉えているのである。

このように、神戸では川というものに対しての関わりが、他の都市と大きく異なっている。
 

* * 禿山の六甲山 * *
 

今の六甲山系の山々は緑豊かな樹木に覆われ、四季折々の美しい風景を見せてくれるが、明治の頃までは全山禿山であったということは神戸市民の間では良く知られている。

明治の頃の六甲山の状況について、神戸に非常に縁の深い植物学者の牧野富太郎が明治14年4月に、初めて六甲山を見たときの印象をこう述べている。
『高知から蒸気船に乗って海路神戸に向かった。私は初めて蒸気船に乗った。(中略) 私は瀬戸内海の海上から六甲山の禿山をみてびっくりした。初めは雪が積もっているのかと思った。土佐の山には禿山など一つもないからであった』
牧野富太郎選集1―:[牧野富太郎と神戸]:白岩卓巳著:神戸新聞総合出版センター)


当時は、山麓の樹木は薪や炭用として日々の生活用に盛んに伐採されており、禿山になってしまったようである。
私も中学のころ、九州の山を見慣れていたので、近くの鷹取山の山を見て樹木の少ない山にびっくりしたことがある。 樹木は少なく(あっても植林されたばかりの背の低い木)、頂上までの登山道は遮るものはなく、どこからでも長田の町が良く見え、また夏の登山においては頂上まで日陰がないので暑くて大変であったとの記憶がある。
(一昨年、約50年ぶりに登ってみると、登山道は頂上の茶屋近くまで樹木に覆われて日陰になっており、その変貌に驚いた。)

表六甲の河川の中では湊川が一番大きい川であるが、その源流となっている再度山付近の山々も非常に荒廃していたようで、そのときの新聞記事が残っている。
『更に進んで所謂中一里にいたれば、山の状況真に寒心すべきものあり、再度山の後方一帯の連山は前面赤砂にして、一草一木見るべきものはなく、岩石骨を露にして諸処に黒色を点綴するあるのみ、突然一小砂漠なりき。砂漠は外国にあると聴けるに神戸市の直ぐ後方に之を見んとは思いもよらざりしなり。』
(神戸又新日報:明治35年(1902年)11月16日)

今日の再度山のハイキングコースからみて、考えられない光景である。

昔の湊川はこの再度山を水源とし、石井川と天王山川が合流し今の新開地を経て、川崎造船所の正門を河口にして流れていた。
 

* * 割れ目の多い花崗岩の山 * *
 

六甲山系の地質は花崗岩により成り立っている。それが東西方向からの圧縮力を受けて幾度も隆起を繰り返しいるうちに岩石に割れ目を生じてもろくなり、表層は風化し、ざらざらした砂をなしている。
そのため大きな石材を切り出すような岩山はないが、庭石、石垣にするようなサイズの石が多く、今でも山中や川辺のハイキングコースにゴロゴロしてころがっているのを見かける。
とくに石屋川周辺では、川の名の由来となったように“石屋”が何軒かできていたぐらい石が多く、また下流に当たる御影浜より大阪方面に運ばれ、“御影石”と呼ばれて売られていたようである。

このような地質に加えて、禿山であったので保水力がなく、普段の川は水が殆ど流れていなかったが、一度大雨になると、大量の土砂を含んだ水が一気に海に向かって流れて災害をもたらしていた。

明治になり居留地ができて、人口が急増すると生活用水が不足することとコレラの発生などで、水道工事が急務となり、布引と烏が原の水源地の建設工事がおこなわれた。

そして、その水源地と川の治水対策のため保水用の植林が明治中期より行われ、今日のような緑豊かな山となった。
 

* * 天井川 * *
 

六甲山系と海岸との短い地域を流れている川は、水が山を削ることによって土砂を含んで流れてきて、平地になって流れが緩やかになると川床に扇状になって沈む。

これでは大雨になると扇状の砂の上を流れるので、両側に堤防を作って水の流れを閉じ込める。そうすると山から流れた土砂はまた砂が堆積し川床が上がるのでまた堤防を高くする。
この“人為的”な繰り返しで川床の高さも平地にある家の天井を超えるほどの「天井川」となる。自然の川では決して天井川とはならない。

六甲山系を流れる石屋川、住吉川、芦屋川、湊川などが天井川となっていたが、この中で特に湊川が石井川と天王谷川という二つの支流の、より広い区域を水源地としている上に、兵庫という当時最大の人口密集地を流れていることで、水害のあるたびに人々は次の水害に備えて川を改修し、堤防のかさ上げを何度も繰り返してきたことにより、堤防も他の河川より一段と高かった。
この湊川は平地より6mも高かったと言われている。これは建物の2,3階の高さで、当時ここより西宮方面が見渡せ、また幕末の大阪城炎上も見えたそうであり、堤防を越える坂道は急で当時の輸送手段の人力車や荷車は超えるのに大変であったとのことである。また生活や文化の面でも湊川が町を二分し、相互の交流を妨げていた。

当時の湊川の様子について、
『平素一掬の水をだに見ざれども、降雨あればすなわち出水するの患あるに就き…』(明治22年2月27日:朝日新聞)
というように、普段は水が非常に少ない湊川であったが、一度大雨が降ると高い堤防を越え、あるいは堤防を破壊して、濁流が町にあふれることが何度もあった。

明治29年の多数の死者を出した水害を機に明治30年により改修工事が行われ、現在の洗心橋から西南へ向けて新しい川を造り苅藻川へ付け替える工事が行われ、明治34年(1901年)に新湊川と名付けられて完成した。

後に旧湊川の堤防は新湊川への付け替え工事完成ときに埋め立てられるが、当時の堤防の高さを残して湊川公園として一部が保存されており、今でもその下に車両用のトンネル(湊川トンネル)となっている。
昔はここを市電が通っていた。49陽会の方々で平野など東方面から市電で通学された方は、毎日このトンネルを通っており、懐かしいところではないかと思う。

この付け替えられる前の、建物の2、3階を超える高い堤防の天井川の“湊川”の存在こそが、兵庫駅と神戸駅をしばらく分断していたのである。
 

(その1:終)

            戻る