社内事務所にて (2組 藤田高明)
                           

「同期の輪」に原稿投稿せよと久保氏及び北村氏よりバトンタッチの連絡があり、甚だ戸惑っているのが本音です。いつもお世話になっている皆様のせっかくのお誘いですので、極めて簡単ではありますが投稿させて頂きます。

小生の場合、これまで投稿された方々のような優秀で波乱万丈の生き方をしているわけではなく、誠に平々凡々なサラリーマン生活を送ってきましたので、その点ご容赦下さい。
長田区に生まれ育ち、名倉小、丸山中、兵庫高の迷門コースを経て関学商学部に進学。
兵庫高在学中の記憶としては、中間試験が終わった後、担任の南山先生に呼ばれ、「入学試験が五百何十番、最初の中間試験が五百何十番、このままでは卒業出来ないぞ」とお説教されたこと。
一年生の夏休みに宿題で植物採集があり、やらないで登校したら、生物担任の確か室井先生に説教され、9月に1週間ほどかけ、野山に生えている草を採集し、持参して勘弁してもらった。このように兵庫高時代は叱られた記憶ばかりが印象的です。

大学時代はアルバイト生活の印象が強く、勉強を一生懸命したこともなく、誘われて入部した邦楽部で尺八を吹いておりました。結果はあまり上達しないまま、社会人になってからは完全に止めてしまいました。

就職については、一度東京に出てみたいとの願望のもとに東京に本社がある企業に2社ほど応募したが、見事に不採用。
もう就職試験が面倒になり、ゼミの先生に「どこでもいいから紹介して下さい」と依頼し入社したのが消火器メーカーの鰹遠c製作所。「中小企業だが堅実である」との言を信用したが、堅実は堅実であったがあまり条件はよくなかった。
新入社員研修後、勤務地に希望があるかと人事担当に問われ、[東京]と申し出したら、誰も行きたがらないから、即決定。
これが人生の大きな分かれ道。10年ぐらい経てば、関西に帰ることが出来ると予想していたが、その希望は最後までかなわず、ずっと東京勤務。
このため、神戸在住の同窓生たちにはご無沙汰のしっぱなし。
仕方がないので、心機一転に住居だけは何度か転居しました。東京→横浜→千葉→埼玉(草加市)と首都圏をぐるりと回り、とうとう海のない県に到達、どうもこれが最後になりそうです。

鰹遠c製作所勤務時代の若い頃は「酒」と「麻雀」、土日になると下手なゴルフ、または労働組合の執行委員会で大阪日帰り出張と、家庭をおろそかにし、後年子供たちより「親父と夕食を食べた記憶が少ない」と言われショックでありましたが、大きな問題もなく、何とか社会に送り出すことが出来、親の責任を果たせたのは、やはり家内のお蔭と頭が上がりません。

平成元年に、現在勤務の潟nツタテクノ東京(初田製作所の子会社)、新しい事業を展開するとの目的で設立、出向命令を受けることとなった。それまで何人かに拒否され、お鉢が回ってきたようで、今風のリストラの対象の気がしてならなっかたのですが…、ムシャクシャしていた時期でもあり、すんなり受けることにしました。
当初、親会社の方針どおりやらず、別方面に手を伸ばし、いろいろ親会社よりクレームがあったが無視し、独自路線を貫いてきた結果、何とか軌道に乗せることが出来ました。
途中転籍し、社長を引き受け今日に至っております。
小生を含め優秀な人材は一人もおらず、ただ朝早くから夜遅くまで仕事に従事してくれる社員のお蔭で今日までこれました。
その間、親会社に残っていた優秀な先輩、同期がつぎつぎと去っていくにつけ、「藤田はよかったな〜」と言われる度に、何ともいえない気持ちになります。
ほんとに「運」「不運」など予測できないものです。
それでも、親会社の若返りとともに、そろそろリタイアの時期を迎えようとしております。

先週末より親父が倒れたため、神戸に帰っておりました。
北村氏に心配をかけ、再三会社と自宅に電話をもらったようです。
丁度、会社の決算時期と上記のアクシデントがありばたばたしている最中、とりとめなきことを述べ、誠に申し訳ありません。
次の方に期待してください。
 

《ホームページ管理者への北村氏からのメールより》

 次のバトン走者、長濱保之君に電話で快諾を得ました。
親の仕送り拒否で中大卒公務員に成った人生論の持ち主でメール等の現代科学を否定、手紙で送るそうです。
私がテキストにして送信させて頂きます。
次の次は新居誠彦君(足利工大物理・講師、10組−金田先生、門田君と同じ)、年内に東京49を了え神戸にバトン、が目標です。
 

戻る