組  李  

黒田さんから引き継がせて頂きました6組の李 瀛です。
皆様の文章を読ませて頂き、私なんてとても書けないと思っていましたが・・・私なりに書かせていただきます。

私の父は、戦前、中華同文学校の教員として中国から単身赴任していました。
昭和18年、中国から家族を呼び寄せ、両親、大姉、次姉、兄、と神戸の校舎の一角で居住する事になりました。中国から見ると、東の大きい海は「東瀛」、日本の国は「東瀛国」です。1年後の昭和19年、兄弟の中で、始めて日本で生まれた私は、「瀛」と名付けられました。 

13歳になる大姉は、軍需工場へ(食事が与えられると言うことで)、勤労奉仕に行き、まもなく爆撃を受け、あっと言う間に亡くなってしまったので、私は大姉の面影が全然ありません。

9歳の時、突然、父から次姉と兄を中国へ送り返して勉強させると聞かされ、子供心に姉兄と別れたくない私は、「私も行く!」と泣いて訴えましたが、あなたはまだ小さいからと止められ、姉と兄は両親の元を離れて1953年「興安丸」で帰国。その時 、姉は15歳、兄は13歳でした。

私と1歳に満たない妹は両親の元で暮らす事になりました。その後、日中両国の事情で往来出来ない時期が生じ、日本に帰って来る事も叶わず、中国で両親を思い慕う姉兄の気持ちも分からないまま、のほほんと育った私は、ある日「ワイルド・スワン」と言う本を何気なく読んで、初めて姉兄の置かれていた状況を理解し、姉兄にとても申し訳ない気持ちでいたのを、今も時々思いだします。

私は、日本で中華同文学校、兵庫高校、短大を卒業。颯爽と働く母の姿を見て育ち、卒業したら母の仕事を手伝うと心に決めていましたので、チャイナ服の縫い方から習い始め、気がつけば、45年の月日が経とうとしています。

初めは東門筋にあった母のチャイナ服オーダ専門店を、昭和52年トアロードに移転し
私の念願だったブティックとして既製品(洋服)も置く様にしました。
外で就職した事も無く、右も左も分からなかった私ですが、当時は若さとガッツだけは有った様です。

黙々とチャイナドレスのカスタムメイドと販売をしていた頃、知人のファッションショーを見て刺激され、それ以来、私のやってきた足跡を形に残したいと思う気持ちがだんだんと膨らみました。

2年間構想を練った末、2002年ハーバーランドにある神戸新聞松方ホールのロビーを借り切って、チャイナドレスのみのファッションショー「チャイナドレスによる和と洋への誘い」に漕ぎ着けました。
と言うより這いつくばって、ここまでたどり着きました。

当日2回のショーで約500人の方々に御来場頂きました。兵庫の同級生、西島さん、吉村さん、岸田さん、安藤さん、川島さん、棚田さん、根津さん、赤堀さん、今村さん(旧姓仁井さん)、渡辺さんもいらして下さいました。

モデルさんは10代から60代まで20人 。店のお客さまやお嬢様にお願いし、中嶋翠さん、安本久美子さんにも出演して頂きました。

幅広い年代の皆さんを見て頂くほうが、お客様にも親しみを感じて頂けるのでは…、と思ったからです。

話が少し横道にそれますが、世の殿方が思い浮かべるチャイナドレスは、横のスリットが大きく割れ、セクシーさだけ前面に出ているイメージでしょうが、私が長い間理想としてきたのは、私達が10代?の頃見た映画「慕情」の主演女優(ジェニファ・ジョーンズ)が着ていた優雅さと気品が程よく漂い、普段着にも着られるチャイナドレスでした。

このショーを見終わったお客様から頂いた「チャイナドレスに対する意識が変わったわ!」と言う言葉が、私にとって一番嬉しかったです。

やり遂げた!と言う達成感に浸る間も無く、無理がたたり自律神経失調になり、1ヶ月間寝込んでしまいました。
それからは健康の大切さをしみじみと感じ、今は孫守りもしながら仕事が少し出来れば幸せ!時々元気で旅行に行けたら幸せ!・・・と願っています。

息子と娘はすでに自立し、理解ある主人と孫達に囲まれ、また49陽会の仲の良い皆様に恵まれ、本当に有り難い事だと思っています。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
拙い文章にお付き合い頂き有難うございました。

次は、佃御夫妻(由晃さん、靖子さん)にバトンを渡します。

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