おっさんの英語奮闘記( 8組 大槻丈彦)
                           

 「おっさんの英語奮闘記」と云う事でバトンを受けました8組の大槻丈彦です。
ここでご披露させて頂く事は、サラリーマン時代数字さえ上げておれば何も言われない営業部門から、突如管理部門に異動をさせられ、苦手な英語を習得させられるまでの50歳を前にしたおっさんの英語奮闘記をご紹介したいと思います。
 

小生東京の薬大を卒業後、ドイツ・フランクフルトに本社のある外資系製薬会社に就職し営業担当として大阪に勤務していました。大阪での勤務も長期になりサラリーマン生活もこのまま営業畑で終わるものと思っていたところ、急遽1990年に本社に転勤を命じられ東京に赴任することになった。当時、本社では英語が必須で、社内で行われる日本人だけの会議でも英語でやっているとの噂を聞いていたので、英語嫌いの小生にとっては絶対に行きたくないところだった。
案の定、赴任して半年くらい経つと周りからポツポツと英語のプレッシャーが襲いかかり始めてきた。
赴任したての頃は、英語が達者な人が翻訳や通訳をしてくれたので英語を意識せずに仕事をこなすことが出来ていたのですが、半年も経ってくるとそろそろご自分でしたらどうですかと言うような目つきでこちらを見始めるようになって来た。
まず、海外からのレターなどは全訳されていたのが要約程度になり、海外に送る小生のサイン入りのレターやファックスも最初はサインをするだけでよかったものが定型の通信程度のものなら中学卒業程度の英語力で書けるので今後からは書いてくださいと云われだした。
会議での英語はというと英語が達者なヒトの隣に座り会議の要約を話してもらっていたが、プレゼンも英語でするようにとのお達しが出た。
この間、会社側は小生に対し何も言わなかったのではなく、まず社内で行われている英語教室に通い英語を勉強しろとうるさく言われていた。しかし何やかやと理由をつけ逃げていたが、とうとう逃げ切れなくなり渋々社内の英語教室に入ることになった。入る前には事前に本人の英語力を試すのでTOEICを受験せよとのことで受けてみた。TOEICを受けるには受けたが何がなんだかさっぱり分からず適当に答えを書いた。
結果は196点。TOEICの満点は990点なので正解率20%。
高校のときと少しも変わっていない。鉛筆を転がしても300点は取れるのにと皆に笑われていた。その時は試験で使った鉛筆の形(会社のサービス品で形が三角形だった)が悪かったと答えていた。
この結果から当然として1番下のクラスに入れられ、いよいよ語学研修がスタートした。
研修は1回/週で19:00〜21:00だった。最初の2〜3ヶ月は真面目に通っていたが、その内出張で遅くなったとか、会議が長引いたとかの理由をつけ研修をサボるようになった。出張もなるべく英語研修の日程にあわせ、アポイントの時間も会社に帰ってきても研修には間に合わない時間に調整して入れるようにしていた。
こんな態度では当然として英語力が上がる訳もなく、とうとう外部の英語学校(ECC)にやらされる羽目になった。
今度は具体的な目標が与えられ、期限を切られTOEIC640点を取るようにといわれた。
いよいよ追い詰められ、ヒアリング力アップのために通勤時間にはウォークマンで英語テープ(ドリッピーの冒険?、ゲームの達人)を聞き、ボキャブラリーを増やすために大学入試勉強用のデル単を持ち歩いた。TOEICも定期的に受験させられ進捗度を見られた。確か2回目も300点ぐらいで鉛筆の実力とそんなに変わらなかったことを覚えている。合計5回TOEICを受け最後は680点ぐらいまでになった。
これで何とか目標をクリアー出来た、ひと安心と思っていたらなんとこれがスタート地点だった。
1993年の初夏、小生49歳、語学力をスキルアップするために1ヶ月間ロンドンでホームステイをして英語学校に通うようにといわれた。ロンドンに行く前にはスウェーデンのストックホルムで開催している国際化学療法学会に出席して情報収集し帰国後に報告するように、また帰りにはフランクフルトの本社に寄り自分の仕事についての現状をプレゼンしてこいと云われた。
内心50歳近い男が1ヶ月くらいの英国留学で英語がスキルアップ出来る訳はないだろうという思いだった。
小生にとっては2ヶ月弱の海外旅行は長い。取り敢えずストックホルムの学会には会社の同僚らも参加していたので気は楽だったが、ここからは一人旅になる。海外での初めての一人旅である。ストックホルムの空港では心配事が次から次へと頭の中を駆け巡っていた。
ヒースロー空港でのパスポートコントロールではチャンと答えられるんだろうか、税関で止められたらどうしよう、ホストファミリーはチャンと迎えに来てくれているんだろうか、見つからなかったらどうしょう、最初の挨拶はどう言おうかなど考えればキリがなかった。でもそんな心配事は全く関係なくホームステイ宅に無事着いた。
ホームステイ先はロンドン市内中心から地下鉄で20分ぐらいのシェファードブッシュというアラブ人が多く住む町にあった。
ホストファミリーは新婚さんの家庭で旦那さんは銀行員、奥さんはバレー学校の校長先生。ここの家は欧米では珍しく靴を脱いで部屋に上がるのが気に入った。
この夫婦普段は大変仲が良く人前でも平気でよくいちゃついているんだが、たまに口論をする。その時奥さんは小生にこう云う。うちの旦那はバグダット生まれだからハーレム好きで女好きだ。喧嘩の原因は多分旦那さんが女遊びか何かをしたんだろうと思う。しかし、翌日はケロッとしてまたいちゃついている。痴話げんかにつき合わされるのもたまったものではない。旦那は本当にバクダッド生まれだったそうだ。
英語学校はロンドン市内の中心部にあり、学校の近くには大英博物館やロンドン大学があった。学校は「リージェントビジネスイングリッシュスクール」と云い、名前はいかにもと思えそうだが、建物は100年以上経っている4階建てのレンガ造りの古びたビルであった。生徒数は総数20名ほどで5クラスほどあった。勿論それぞれのクラス分けは英語の能力別であり、当然として小生は1番下のクラスであった。
同じクラスにはドイツ人、ノールウェイ人、スペイン人、2人のイタリア人がいた。授業は朝9時から始まり、2時間の昼休みを挟み午後5時までだった。他のクラスには日本人はいたが、小生のクラスは外国人ばかりなので日本語が話せず苦痛であった。外国人たちはお互いヨーロッパの国々で、言葉は違うが同じようなアルファベットを使っているのでコミュニケーションはうまくいっており傍から見ても楽しそうにしていた。特にイタリア人とスペイン人はお互い母国語で話しても充分な意思疎通が出来ているのには驚かされた。ただ彼らラテン人は国民性か授業中でもお構いなしに母国語で話合っているので煩くて仕方がなかった。
昼休みぐらいは英語のことを考えずに一人でのんびり飯でも食おうと思いその辺の店に入るが昼休み2時間は長すぎて退屈する。20〜30分もあれば充分飯は食えるのだから。
時間つぶしに学校の周りを散歩していたら近くに大英博物館があることを知り、それ以降はサンドイッチをかじりながら毎日のように通った。今でも館内のどこに何があるか覚えている。
苦痛の中にも楽しさもあったロンドン短期留学の1ヶ月はアッと云う間に過ぎ去り懐かしい日本に帰ってきた。
当然会社は小生が仕事に支障ない語学力を身に付けてきたとみなし、その後8〜15回/年の海外出張をさせられるようになった。
しかし、翌年再度ロンドンでの短期研修を命じられた。やはり英語能力がまだまだ不足していたと言うことであろう。このときもホームステイ先は前年と同じホストファミリーだった。
ただ旦那さんがエライ老け込んでしまったなと思いよく見たら別人だった。やはり前の旦那さんのハーレム好きが離別の原因であったのだろうと思っている。
このように散々勉強させられてきた英語も今では全く使う機会もなく、多分今TOEICの試験を受ければ鉛筆にも負けてしまうだろう。

写真も入っていないただ長々とした稚拙な文章にお付き合い頂き有難うございました。
さて次のバトンは皆様もよくご存知の北村哲郎君に引き継ぎたいと思います。ただ彼は現在サンパウロ及びボストンに出張中ですので、ここへの投稿は少し遅くなるとのことですのでご容赦願いたい。

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