7組 岸本 伸子

 4組の小嶋(坪田)淑子さんよりバトンタッチしました、7組の岸本(平野)伸子です。

 思いがけず大阪府北部高槻市に住んでもう16年目、神戸も昔は摂津の国。高槻あたりは今も北摂と呼ばれています。広くいえば、古くは同じ地域です。JR京都線で大阪と京都のちょうど中間点。いつも北摂の山々を眺めて暮らしています。この山並みを西に辿っていくと六甲山脈に続きます。

 30年位前、ラジオであの「青い山脈」の山脈が六甲山脈だと聞いて意外な感じでした。そそり立つ、もっと大きな山を思い描いていたのです。それが又、最近ラジオで、あの「青い山脈」は、大阪・京都間のJRの車窓から見える山並みを見て、服部良一さんが「想」を得たものだと聞きました。どちらも連続する摂津の山脈ですが、やはり、何となく、六甲側は若々しく、ハイカラな感じ、JR京都沿線はゆったり、穏やかな落ち着きを感じます。遠方から帰って来た時など、京都から高槻に向かう電車の窓から山並をみますと、「帰って来た」と本当にホッとします。

 高槻は古墳の多い土地です。有名なのでは、継体天皇稜と言われる「今城塚古墳」。それに、藤原鎌足公の墓と言われる「()武山(ぶやま)古墳」。そして最近よく新聞に出ていた未盗掘と思われることで注目を浴びている「鶏山(つげやま)古墳」。「闘鶏山古墳」は、阿武山の山すそあたりの低い丘に位置し、我が家からは直線距離で2分位の場所です。実際には10分位かかります。この側には、5世紀頃、古墳の副葬品としての埴輪を焼いた窯跡もあります。この「闘鶏山古塚」を借景に山の側面を利用した趣のある邸宅があります。最近、高齢で亡くなられた書家の村上三島氏のお宅です。
「阿武山古墳」は、海抜280mの阿武山のほぼ頂上近くです。(阿武山は茨木市と高槻市の境にあります。)昭和9年に「京大地震観測所」の建設工事中に発見されました。もう74年が経ち、「地震観測所」は10年以上前から機能していないようです。すでに廃止が決まったとか。阪神淡路大震災の時でさえ、データが無かったそうです。
旧制茨木中学から三高、京大を出て、実業家となった原クニゾウ氏(字を忘れました、旧姓は田中さんです。)が地元の役に立つ様にと、寄付されたそうです。
活断層の真上に建てられているそうです。その頃から地震と活断層のことは知られていた様です。この話は、旧制茨木中学出身の知人から伺いました。茨木中学は茨木高校となり、創立120年を越えました。この方も存命なら105歳位、95歳まで母校を誇りに思って生きられました。物理学者の米澤冨美子さんのことも大きな誇りでした。母校と後輩を思う気持ちの強さに、兵庫高校時代の二中出身の先生が重なって思い出されます。あんなに一途で純粋な愛着を抱ける世代があったと思います。

 母校の先生のことですが、偶然、近くに菅沼先生がいらっしゃいます。歩けば30分少し掛かる距離です。我が家から山沿いに東に行くと芥川という川がゆったりと流れています。それを渡ると先生のお宅のある土地です。川は淀川に注ぎます。以前、名簿で先生が近くにお住まいだと知りました。

一年生の時に化学を教えていただきました。マッチの摺り方まで丁寧に。今はマッチを使いませんが、マッチをする度に先生のご注意を思い出し心掛けました。「箱は中のマッチ棒の火薬が上方になる様に持つこと。」です。マッチを摩り下ろした時に炎が箱の中のマッチに燃え移らないようにという理由でした。こんな小さなことを丁寧に教えられた私達です。

神戸に居た頃、家の近所に酒井さんというお医者さんが居ました。軽い風邪で行くたびに、診察などそっちのけ。昔の二中の図をカルテに書き、昔話に熱中します。酒井さんは、お医者さんですけど、みたて治療は頼りにならないという評判でした。
菅沼先生、数学の藤田先生と同期で、菅沼先生は、この酒井さんの崇拝の的でした。
思いついたことを書きました。

次は、同じ組の林(森)徹子さんにバトンタッチします。

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