(3組  山田 勝也)

< トキモチシルバーの日常断片 >
07.7.17.(火)午前中 神戸鉄工団地協同組合の新事務員の受入れ行事に参加した。

今日は、夏 といえども暑くなく涼しげなので、午後一番から 神出古神の金棒池のオーバーフローに15尺の竿を出す。台風4号の通過で久方振りにまとまった雨が降り、水量は充分である。第一投目からせわしなくジャミ当たりが続く。時々5〜6cmのモロコが、そしてブルーギルが掛かる。本命の ヘラ の気配はない。30分程して早くも 飽き が来そうな場面で・・・モロコが掛かり水面を滑らせていると、イキナリガクーンと竿を持ち込まれた。モロコをオオクチバスが食ったようだ。しばらく格闘の末、仕留めたバスは、35cmを越え獰猛で可愛げなど微塵もない。少し暴れたが土手に放り投げ捨てた。2〜3日で カラス がきれいに掃除してくれるだろう。もう今日は止めよう。家に帰って、日曜日に録り置いたビデオでも観るとしょう。

07.7.18(水)朝8時、私の担当である 粗ゴミ を持って、通りへ出ると曇り空で意外と涼しい。よし会社へ少し顔を出して9時過ぎから、神出広谷の笠松池にはいろう。

会社まで車で3分、いつものように書類(1日4〜5枚)に目を通し、メールを開くと社内連絡,迷惑メールにまじって岸本氏より2通入っていた。添付の地図のみプリントアウトし、早々に席を立つ。9時前に家に帰って釣り用のボロ服に着替えて、外に出るとお陽さんがカンカン照りになっていて、暑げである。笠松池へは昼から行くことにして、49陽会への 原稿 を書こう。

 < 生い立ち そして現在へ >
熊谷 彰 君から バトン を渡された3組(藤原 豊 学級)の山田 勝也です。高校時代は磯谷でしたが、事情で社会に出てからは山田で通しています。私の周りではあまり珍しくありませんが、私は今まで一度も神戸を離れたことはありません。

長田区で父が創業した鉄工所(今は電機会社)の3男坊として生まれました。大学卒業後、偶然ですが 38陽会の弁護士と42陽会の公認会計士の兄弟が開いている大阪の事務所に2年半修行に入りました。この時の出来事を一つだけ紹介させていただきます。

弁護士のところに持ち込まれた「身内争い事件」で依頼者は、事業外に居て、何とか事業本体の不正を暴き有利に立ちたいとのことでした。事業本体の株式の38%以上を持っていると 帳簿閲覧請求権 があるんだそうです。ただ現実にはその筋の専門家(今の地検や特捜のような)が大勢で踏み込むようなことは出来ず、又帳簿を持ち出すことも出来ません。そこで開業間もない岸本氏にたのんで、カメラマン5〜6人を集めてもらい事業本体のある 箱根の某ホテルに乗り込み千枚を超える書類を写真に撮りました。(今のようにコピー機は出回っていません)

写真の出来はあまり良くなく識別に苦労しましたが、この踏み込み行為自体が相手方に大きな打撃を与えたのか、訴訟は有利に進んだことを記憶しています。
法律会計事務所を辞した後は,父の事業に入り経営側の立場で40年近く経ました。

 私は3男でありましたが、阪神大震災の前年より一昨年まで12年間社長を務め、社内外の良き人脈と幸運にも恵まれ無事、創業以来初めて山田家以外のプロパーに引継ぎました。今は会長兼顧問として非常勤のような常勤の立場で「金持」よりも気楽な『時持・トキモチ』に甘んじています。

 大震災では会社も相当な被害を受け、主体工場建屋は倒壊の診断を受けました。その折に、本シリーズの第一走者である門田氏に解体ではなく補修復旧に尽力していただき、何とか復興することが出来ました。門田君その節はありがとう。
「 そやけどなんぼ人手不足やいうても、ド素人の茶髪や乳呑み児を連れた助っ人にはびっくりしたで・・・ 」

  ≪ 震災後、より自己積極人生を ≫
いつ何が起きるかわからない。自分からやり始めないと何も変わらない。と震災を機に強く考えるようになり、行きたい,食べたい,実現させたい・・・と3回思ったことは実行することにしました。RV車をキャンピング仕様に改造して、道の駅を 寝場所に100名山,滝,水、岬,世界遺産などへ比較的に長期にかけて積極的に出かけています。

 < 49陽会20周年後武陽会80周年 >
今から25年前1982年正月パリ在住の画家坂本吉章氏が三宮で個展を開いていました。たまたま観に言った時に今は亡き藤原俊之と再会し、彼が印刷デザインの仕事をしていることを知りました。おりしも兵高時代ピカピカの一年生教師であった徳田泰治先生が兵高に戻ってこられていました。それを機に摂り憑かれたように‘49陽会の少し詳しい名簿=20年目の断面‘作成に藤原氏他とともに専念しました。そしてその発行記念パーティを8月14日に旧オリエンタルホテルにて開催したのです。
今思えば、当時は若かったのでしょう。いまの私にはそのカケラも残っていないエネルギーでした。

 その後も徳田先生とはそこそこ交流を続けていました処、武陽会が80周年を迎えるにあたり卒業生教師である山口先生,恋野先生,徳田先生が事務局を受け持つことになりました。47,48,49陽会に対し中心陽会として参画要請がありまして、49陽会からは堀川君と森岡さんと私が参加しました。その後、半年強、全体の企画と実行計画を練る作業に、週2回夜遅くまで学校に通いました。裏方に徹しましたが、88年5月ポートピアホテルにての最終事業の祝賀会が終わったときには、或る達成感がありました。

 < 08.5 武陽会100周年 >
いよいよ来年100周年に向けて、実行委員会が結成されその準備の会合が毎月開催されています。地元に居る人間として堀川君と数回出席しました。私見ですが本来、各陽会が常日頃より何らかの連帯,連携,交流が図られていて、10年に1度の周年を機により活発にまた新たに結束を促すのが周年事業であると考えます。あわせて、縦断的周年記念行事を大々的に挙行開催し、より大きな団結交流を実現させるものであると考えます.
 
2万人近い会員を擁する武陽会を100周年に向けて、まとめあげて行くのは容易なことではありません。会員に書類を発送するだけで1回につき300万円も掛かるのです。
49陽会も100のうちの一つでありますが中心ではないと認識しています。
本年11月10日に開かれる49陽会45周年に向けて山口委員長を中心に一つのまとまりがつくと私は考えています。

 < 終わりに >
以上が全く脈絡がつながらない乱文ですが、私 山田 勝也 からのメッセージです。
只今左手を頭にやりました。年をとっても髪の毛は延びるのですネ。・・・ そうだ
私の後は、10数年浮気することなく毎月お世話になっている床屋の5組内田(旧姓池内)民代さんに バトン を継なぎます。

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