『中年(老人に近い)よ大志を抱け』
                             (10組 奥井宣孝)

【マドンナからの原稿依頼】

49陽会40周年同窓会で安本久美子さん、李瀛さん、中島みどりさんら女性陣と初めて会話いたしました。在学中は男子クラスであったため、女生徒との会話は皆無で、いつも男女クラスをうらやましく思っていました。
安本久美子さんには、金田先生米寿のお祝いのときも10組に混じって色々お世話になっています。この久美子さんから電話で次回の「同期の輪」原稿依頼がありました。この「同期の輪」はいつも楽しく読まさせていただいておりました。その内自分にも回ってくるかなと思ってはいましたが、こんなに早く順番が来るとは予想外でした。
良い機会ですのでこの場をお借りして私の半生を回顧してみたいと思います。

【生まれも育ちも神戸】

私が神戸で生まれた後、親父はすぐ戦争に再び応召されました。神戸への空襲が激しくなり私たち母子は、母の実家小倉に疎開しました。
終戦後親父がフィリピンから復員したのは、私が3歳頃でした。
このときは爆弾で焼かれて家が無く、御影の知人の庭先にバラックを建て3人で暮らしていました。

【悪ガキ三羽ガラス】

私が5歳のとき、兵庫区東山町の湊川沿いに約20軒の市営住宅が建てられ、その内の1軒に家族が住むことになりました。同じ長屋に同級生があと二人いて三人とも本当に悪ガキでした。
このため「長屋の三羽ガラス」といわれていました。それに偶然にも三人とも長男で親父が警察官でした。

【越境入学】

川池小学校卒業後、本来なら兵庫中学に行くことになっていましたが、夢野中学
に越境入学しました。このとき「三羽ガラス」もみな夢野中学に入学しました。
又3人とも兵庫高校の入試に合格しましたが、一人は長野県の松本深志高校へ行
きました。

【帰宅部員】

高校生活は、私にとってあまり華やかな思い出がありませんでした。
この時代は特にやりたい事も無く、どこの部にも所属せず、授業が終わるとまっすぐ帰宅していました。

【大学では遊ぶぞ】

一浪後神戸大学工学部土木工学科に入学し、4年間は十分好きなことをやってきました。自動車部、後に写真部に入り毎日部室に入浸りの学生生活でした。
休みには旅行やスキ−を楽しみました。このため試験のときは大変でした。
ほとんど授業は受けていないので、友達からノ−トを借り自分のノ−トに転記してにわか勉強で何とか単位をとりました。
大学卒業後15年間ほどは、時々大学の期末試験の夢を見ました。

【神戸の人は徳島へ、徳島の人は神戸へ】

昭和42年に神戸大学を卒業後、東洋建設株式会社に入社し最初の赴任先は四国支店徳島事務所でした。このとき同期生は24名で、反対に徳島大学出身者は神戸に配属されました。

【初めてのお見合い】

入社後3年間は徳島の山奥の現場にいたため若い女性を見る機会がなく、4年目に上司の勧めにより始めてお見合いをした女性がまぶしく見え、半年間のお付き合い後結婚にいたりました。

【3人目は七夕に!】

結婚後はじめての子は女の子で誕生日は3月13日でした。
3月3日であれば「ひな祭り」でしたのに残念。次は男の子で端午の節句だと狙って(?)いました。それが昭和49年の寅年の5月5日に長男が生まれました。やったぜ、ベイビ−(古い)。これは私の自慢です。
これに気をよくして、3人目は女の子で7月7日の「七夕」にと決めていましたが、念願かなわず今に至っております。(もう無理)

【関西弁は嫌われる?】

東京に赴任した頃、社内は関西系の会社であるため関西弁でも違和感がありませんでしたが、秋葉原の電気店で買い物している時,若い店員から「お宅、関西」と言われることがありました。これはいかにも東京人が関西人を見下しているかのような表現です。これには本当に腹が立ちました。
田舎出のぽっとしたあんちゃんが数年立つといかにも東京人であるかのよう錯覚して、由緒ある関西の人間をつかまえて「お宅、関西」とは何を言うかと思ったものです。
又、中国語の先生(中国人)からも関西弁は汚いといわれたのはショックでした。東京では以後できるだけ関西弁を使わないよう努力はしました。

【単身赴任は何時終わる】

入社後約14年間は四国管内4県をくまなく回りました。四国支店勤務後は単身で大阪3年、その後東京本社で15年勤務しました。
この間フィリピン・台湾それぞれ約1年間の単身海外生活も経験しました。
現在再就職先(香川県・観音寺市)でも単身生活を続けています。おかげで一人でも生活する自信がつきました。(濡れ落葉にはならないぞ!)

【お父さん、次は何時帰ってくるの】

東京や大阪の赴任先から高松の家族の元に帰ると小学生の息子が一番喜んでくれました。数ヶ月に1度の帰省なので息子は次は何時親父が戻ってくるかが心配で、家に帰ったばかりの私に「お父さん次は何時帰ってくるの」とたずねられたりしました。こんないじらしい息子もやっと今年(平成19年)結婚することになりました。

【出張した外国は15ヶ国】
 

海外事業部に籍を置いていた頃は色々な国に出張させてもらった。フィリピン、台湾、シンガポールが主であったが15カ国以上となる。トンガ王国では国王に拝謁することが出来たり、中部アフリカのザイ−ルでは、首都キンシャサの宮殿のようなところで当時の独裁者モブツ大統領主催の晩餐会に招待され食事後握手するなど良い経験をさせてもらった。多くの外国に行きましたがいつもやはり日本が一番良い国だと感じています。

【健康診断軽視の結果は】
 

東京に赴任していた頃毎年健康診断を受けていました。
ある年「便に若干潜血が見られるので精密検査必要」と医師から問診を受けていましたが2、3年無視しておりました。この結果大腸のポリ−プ潰瘍切除の手術を受ける事になりました。
細胞検査により大腸ガンと宣告されました。当時大腸がんの5年生存率は30%とものの本に書いてましたので、このときは目の前が真っ暗になり、本当に真剣に悩みました。病院には約40日入院しました。
あの時もっと早く精密検査を受けていればこんなことにならなかったのに、お医者さんの言うことは聞かなければと、反省した次第です。

【学習能力がない】

50歳の時の大腸ガン手術後健康状態に戻り、その後10年何事も無く生活していましたが、「喉もと過ぎればなんとやらで」60歳のときの健康診断で再び便に潜血が発見されました。
精密検査後、又大腸ガンであることが分かり、再度割腹手術を受けました。
この時は20日余りの入院でしたが、2度も同じ手術を受けたおかげで10年間における日本の医学の進歩を、実体験で知ることが出来ました。

【似たもの夫婦】
 

私の2度目の手術のとき、同時期に女房も検査により大腸ポリ-プ潰瘍であることが分かり、やはり開腹手術を受けました。女房は3月にそして4月には私が手術を受けましたが、このときは二人の子供も忙しかったことでしょう。感謝。女房の方は転移の恐れがあるということで、手術後2年間抗癌剤使用生活を送りました。私の方は転移の恐れなしということで元気に生活できています。

【2度あることは3度ある?】

50歳、60歳と2度も同じ大腸がんの手術を受けたので3度目は70歳頃になるので十分健康に注意をし大腸の内視鏡検査も2年に一度は受けようと思っています。

【社交ダンスは老化防止】

今まで運動らしきものを全然やっていなかったが、3年ほど前から社交ダンスを始めました。毎週1,2度は町内の社交ダンスクラブで踊っていますが、思ったほど簡単ではなく四苦八苦しています。
会員は約30名で年齢層はかなり高めですが、老化防止には最適かも。

少し前までは社交ダンスは暗い酒場で男と女が頬をつけ絡みながら踊る、いわゆるチ−クダンスのイメ−ジがありましたが、最近では明るいフロア−で健康的に踊るスポ−ツダンスとして盛んになっています。

【中年(老人に近い)よ大志を抱け】

退職後の夢(希望)があります。
四国八十八ヶ寺霊場巡拝。いままで行っていない国々への旅行。海外でのロングスティ(3ヶ月程)。航海による世界一周…などなど。
厳しいといわれる年金生活予定者がどこまで実現出来るか分かりませんが、健康に気をつけながら希望をもって頑張ろうと思っています。

【最後に】

10組の皆さん、毎年のクラス会楽しみにしています。
又49陽会の皆さん、今年11月の45周年記念同窓会でお会いしましよう。
 

ps:次は安本久美子さんお願いします。
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