3年1組の藤井です。                 (1組 藤井 英喜)   

3年1組(3列目から後ろは枕を並べて討ち死にだ、の村上学級)の藤井です。
玉出君から電話をいただき投稿のお誘い、始めてホームページの存在を知り、「同期の輪」も読ませていただきました。お顔を見れば解る方もおられるのでしょうが、半数以上が解りません。忘れてしまっている事もあるでしょうし、何より生徒数が多数だったことで仕方ないと思います。 私が半数以上解らないということは半数以上の方が私を知らないということだと思います。
そこで少しでも記憶の糸をたぐれるよう私の思い出を述べてみます。

私は堀川キャプテン、中尾(児山)バイスキャプテン、木村君、門田君、加藤君、宇野君、ピンチ部員安藤君、そして今は亡き徳宮君とともにラグビー部で3年間、筆舌に尽くしがたい練習に明け暮れました。今振り返ってみると中尾君は別としてあとの7人は特に体格が優れているというわけでもなく堀川、木村、徳宮らが少し足が速かったくらいで、私は入学時やっと160cm、50sの並以下でした。
勿論成長期でもあったのでその後168cm、62s(今や75s、ただの肥満です)になりました。足の方も1年の春の100m走で15秒台で「おまえほんまにラグビー部か?」と体育の先生(お名前忘れました、誰か覚えている方教えて下さい。多分小松先生)に言われしょげていましたが、3年の時は12.7秒で陸上部の亡き平野君に継いで1組2番でした。
藤原先生からこんどは「さすがにラグビー部やなあ、スタートの勢いが最後まで続いたらもっとええタイムになっとったで」といってもらい嬉しかったのを覚えています。
そのころ我々はOBの方から口が酸っぱくなるくらいショートダッシュの重要性を言われていました。「100mなど速くなくていい、最初の5m、10mが速くないといかん、3歩目から全速力だ」と言うわけで、藤原先生の「スタートの勢いが…」のお言葉が特に嬉しかったです。もし30m走が有れば全校で5本以内で、と言う自負はありました。特に人に優れているわけでもない私がこれくらいになったのもあの毎日の練習の成果だと思いますし、それを身をもって体感できたことはありがたくおもっています。

突然ですがラグビーの3原則   
  StraightDash、 LowHead、 HardTackle、

思い出など書き出したらきりがないので、もう一つだけにさせて下さい。
ラグビーの全国大会県予選は毎年、修学旅行と重なっている事が常でした。2年の秋、我々は勝ち進み準決勝に勝ち、翌月曜日修学旅行出発でしたが、次の日曜日には決勝戦を控え、当然のごとく不参加(旅行の方をですよ)毎日午前中自習、放課後は決勝に向け練習に励みました。
このことを知っていた安井生徒会長が旅行の帰途の列車で、「ラグビー部は試合のために、修学旅行に参加できなかった。明日(日曜日)は応援に行ってやろう」と車内放送でみんなに呼びかけて下さったようで、今はもう無い西宮球技場での宿敵村野工業との決勝戦には今までに経験のない大観衆の応援を受け、頑張りましたが惜しくも敗戦を喫し、来て下さった諸兄に残念な思いをさせてしまったのが悔しかったです。
あのとき電車賃まで払って応援に来てくれた方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。
あぁ、そんな奴おったなあ〜と一人でも思いだしていただければ幸いです。
その後は関学法学部に進み、高三の秋に父が亡くなっていたこともあり(あ、そうそうあのときも多数葬式に来て下さり有り難うございました)また、あの激しい練習を想像するだけで足がすくみ入部する勇気がもてず、父の仕事だった運動具店を手伝いつつ、学校半分、商売半分就職活動もなく、父の仕事を引き継ぐ形でそのまま現在に至っています。
店では相変わらず小中高生相手に持論をぶったり、おだてたり、暇や暇やと愚痴ったりの毎日です。店は子供相手の商売のくせに、あの悪名高き福原柳筋の入り口です。お近くにお越しの際は覗いてみて下さい、多分店の前でゴルフの素振りでもしていると思います。

最後に直近の出来事:先日(5月4日、5日)志賀高原高天原(標高1700m)でスキーを楽しんできました。
まだそんなことをやっているのかと言われそうですが、2日間とも快晴に恵まれ、その日の下界最高気温は26度くらいでしたが、お山の明け方は0度前後日中は18度、最近の機械力のおかげでゲレンデは完璧整備、1番リフト8時から10時30分位までは雪も堅く締まり、最高でした。
昼頃からはさすがにシャバシャバのシャーベットになるので、翌日の早朝出勤のため英気を養い、残雪の高原を散策、湿地で水芭蕉を探したり、車で少し下り標高800m位で1ヶ月遅れの花見もしてきました。
今回感じたことは、スノーボードの普及のせいか、かつて若者の遊びだったスキーが今や熟年、老年のスポーツになっていることでした。ゲレンデで滑っている人の9割は、40歳以上で、若い人もいるにはいるのですが、ほとんど競技スキーヤーかスノーボーダーで、かつてのようなレジャーでスキーをやっている若者が、ほとんどいなかったです。スキー場、スキー産業の先行きが心配になりました。

玉出君から次の投稿者の承諾を得なければ、投稿できないとお達しがあり、どなたに頼もうかと思案しながら荒田小学校の少し北の湊川沿いを車で南下していたところ、右手の歩道で大のオッチャンが二人深刻な顔をして立ち話をしているじゃないですか、思わず何事かと、ブレーキを踏みスローダウン、なんと片方はあのハンドとタイヤで有名な吉村君でした。車の事故でもあったのかと思い、傍らに車を止め「やあ、どうしたん」とかけよると「おお、藤井、彼知っとるやろ、2組の須川や」もう一人の方は同期の方だったのです。お顔はそう言われれば見たことのあるような、何とか思い出さないとと焦りましたが、はっきりした記憶は最後まで有りませんでしたが、そこで立ち話の輪に入れてもらい、大の大人3人の思い出井戸端会議になりました。
そして吉村君もすでに投稿なされていましたので、私もこれは何かの縁だと思いネキストを須川次郎君に御願いしたところ、快諾していただきました。
須川さん宜しく御願いいたします。
                                      
         2007年5月  藤井英喜

戻る