来し方を振り返って                   (10組  野口昌彦)

兵庫高校受験の何日か前に友人と学校の下見に行ったこと、そしてその時校庭の隅に大木を見たことを良く覚えている。それがユーカリの樹であることを、その時には知らなかった。幸いにも合格し、その当時上沢通りにあった店へ、これまた友人と二人で学生帽を買いに行ったことも記憶にある。

その畏友田中兄よりバトンを受け、この機会に来し方を振り返ってみたいと、棚の奥にしまい込んでいたレコードを取り出してみた。LP盤ジャケットのジャンヌ・モローとマリー・ラフォレが、ほこりの中から微笑みを返してくれたように見えた。

それぞれの家から分くらいの所にあった喫茶店によく通い、かわいい娘さんがいたので足が向くのだったが、時間、時間と一杯のコーヒーで粘ったものである。

文学論か、はたまた人生論か、よく一緒に時を過ごした。

ビジネス文書は随分書き散らしてきたが、何せこの手の文章は中学校時代の文芸部以来久しいので、四苦八苦してやっと書き上げた。当初2枚の予定で書き進めていたが、ジャンヌ・モローに誘発されて次々と思い出されることがあり、その上最近の出来事(原発、保険、タミフル、教科書、等々)から想起される私憤も加わり、枚数が増えてしまった。閑人の戯言とご容赦願います。

 

兵庫中学で試験の度に、夢野台と兵庫を行きつ戻りつ彷徨っていたが、かろうじて入学できた私は、勉強はできないしスポーツも駄目、その上クラブ活動にも全く参加していなかった。小学年生の新学期に山陰の小都市から大都市神戸に越してきた私は、訛りもあって口数少なく非社交的、引っ込み思案の性格のまま高校生となった。

一体何をして毎日を過ごしていたのだろうか。当時のことを思い出そうとしても、鮮烈なものがない。
・・・いや、そうでもない・・・初めての英語の授業で、忘れもしない、土井克彦君の知識と自分のそれとのあまりにも大きな差に、呆然となった。

これは他の教科についても同様に云えることであった。

卒業後の年の間、猛烈に勉強したこともないし、また遊んだ記憶もない。これまた平々凡々と過ごした。一緒に建築工芸科を受験した橋本利武君と「来年受ければ間違いなく二人とも通るな」と言いながら、すっぽかして一人立命へ進学したことは、浪人する余裕がなかったとはいえ、いつまでも心残りなことであった。一年後に専攻科は違ったが同じ学舎に通うことになろうとは・・・。余裕のできた卒業後、あるいは在学中からだったかもしれないが・・・二人で新開地のビリヤード店に入り浸り(キューまで手に入れ)、また夜の巷でよく飲んだ。

 

就職試験のため、開通して2年余りになる新幹線に始めて乗り、東京まで出かけて行ったことも思い出される。結局、神戸市内の小さな機械メーカーに就職したが、上司に「この会社の特色は、給料が安いことと仕事がきついこと」と言われ、なるほどその通りであると、機械油に塗れながら身に染みて分かった。初めての給料日、現場で一緒に働いた工員が、「俺は1円50銭上がった・・・」と昇給の話をしていた。因みに私は職員と呼ばれ、休めば月給からその分を引かれる、いわゆる日給月給制であった。そして一年足らずで退社した。辞めた人間に、雇用保険(当時は失業保険と呼ばれていた)を受けるための書類は、なかなか発行してはくれなかった。

 

その後の半年を失業保険で過ごしたが、最初の三ヶ月のなんと楽しかったことか。

しかしやはり生来の真面目さ故か何もしない事は苦痛となり、遂に新聞広告を見つけて神戸市内の外資系会社に就職した。地震を理由に何年も断ってきた東京への転勤をしぶしぶ受け入れ、それから4年後、20年勤めたスウェーデン系の会社を辞めた。

そして次の日には小さな会社に移り働き始めた。その会社もまた北欧の会社であった。

 

オープニングスタッフとして事務所の選定から秘書の採用(レンタル会社から事務机などを借りて俄か作りの事務所を設え、青山の外資系と言うだけの新会社に応募した多数の美女の面接に立ち会った)、その他諸書式・規則の作成、毎日送られてくる頼みもしない業界新聞や怪しげな恫喝的電話への対応など、初めて経験する様々な事に頭を悩ませながら、忙しく過ごした。後に一大汚職事件で大騒ぎとなった会社にも人材を依頼したことがあったが、「人」を「駒」と言って憚らない若い自信満々の営業マンに辟易して、1度限りで止めた。

ホテル・オークラにおける創立記念パーティーでは、昭和天皇の喪中と言う理由で来賓重役の乾杯の音頭が自粛され、静かにひそかにビールを注ぐ音だけが流れた。

日本音楽学の泰斗・吉川英史氏は、国を挙げての歌舞音曲の自粛に疑問を呈しておられたが、当時それは小さな声でしかなかった。そのような自粛ムードの中の出発であった。日本文化の多様性を認めず、一時期のみを捉えて日本の伝統と強調する傾向は、今もなお根強い。ビールと言えば、又思い出した。ホテル担当者から、アサヒ、キリンのどちらにするかを問われた。顧客の中にビール製造会社と系列・関連の会社があるためであった。結局フィンランドのトーゴービールにした(各国の将軍たちの名前をつけただけのもので、日本からは東郷元帥が選ばれていた)。なるほどこういうことも大切なのかと、またひとつ学んだ。

フィンランドの親会社が業績不振の折には、国内の銀行の横並び意識や、臆面もなく前言を翻す慇懃な態度に怒りながら、融資の継続を図るため苦心した。日本企業との提携を探るためとの理由で、T電機、S重機など数社の重役との会談を設定しろと、親会社から密かな命令が来た。設立間もない小さな日本法人(日本の人口に換算すれば、全体ではかなりの規模の企業体なのだが)の認知度は低く、僅かばかりの伝手を頼りに、面談の約束に駆けずりまわったりした。

在日フィンランド系企業が合同で、長野県小海町の協力を得て町内に福利厚生施設を建設する話が持ち上がり、新会社を設立して〔フィンランドビレッジ〕を経営する案が決まった。親会社の意向は、毎年の決算利益を最小限にしろ、と云うことであった。しかし私は、将来のため内部留保を確保したいと抵抗を続けていた。そして結果多くの税金を払ってきた。・・・税金についても苦い思い出がある。ある年、税金の支払いは先に済んでいたのだが、社内手続きの間違いで書類だけ期限を一日過ぎたことがあった。渋谷税務署は追徴金を払えと請求してきた。会計士と共に訪問して交渉したが駄目であった。この時係官に、金丸 信はどうなんだ!放っておくのか!と皮肉交じりに食って掛かってはみたが・・・・無駄だった。この福利施設の件は、親会社に対して粘りに粘って、何とか2株を持つことを承認してもらった。在フィンランドのピアニストで、現在左手のみでの演奏を続けておられる館野 泉氏が、同じ敷地にある小海町建設のホールで演奏されたこともある。

誕生日は祝ってもらうものではなく周りに感謝、と常々思っていたが、独身の時に一度だけ家族に馳走をしただけで、継続は難しくそれで終わっていた。そこで、誕生日を休日にする社内規定を設けることで、社員の皆さんに実行してもらうことにした。

フィンランドのように4週間とはいかないが、夏休み、またゴールデンウィークもできるだけ長期にと、極力努めた。自分自身は、職住近接を選択したため土・日の静かな環境での仕事が可能で、そして頸を悪くした。

 

神戸時代に労災で悪くなった椎間板ヘルニアの手術後の腰への負担を軽くしようと、転勤した当初から始発列車のある井の頭線「富士見が丘」駅近くのアパートに住んでいた。ある時、度々一緒に客先を訪問していたフィンランド人技術者がわがアパートを訪れた。あまりの狭さに暫く絶句、踏み入れようとした足がスローモーションとなったその姿を、今でも忘れられない。年間家賃の値上げはしないと言ってくれた、酒店経営者の家主一家と仲良くなったこと、そして4階にある我が家のベランダから、ある日の夕方突然富士山を発見したことも、忘れがたい。一昨年の秋にまだ現役の彼が、フィンランドより夫婦で訪れてくれ、姫路・竜野を案内した。田舎の変哲もない広いだけの今の住居であるが、積年の思いを解消することができた。

先任のフィンランド人の後を任されたのを機会に引っ越した。それは職住近接そのもので、南平台の三木元首相の邸宅のまん前のマンションであった。家の広さは前の住まいの倍程度、75平米の広さしかないのに家賃はおよそ6倍もした。

せっせと雨の日も雪の日も15分かけて事務所まで通い続けたが、その間にバブルは弾け、マンションを出る頃には、売りに出ていた別の階の一戸の価格は三分の一以下になっていた。

 

昔、当時の中曽根首相が「フィンランドのような属国になる・・・」と、所謂「フィンランド化」発言で物議を醸していたが、かの国は含羞の人が多い国であると思う。スウェーデンとフィンランドは、同じ北欧と云っても国民性の違いは大きい。地理的歴史的な要因をそこに見ることができる。携帯電話のノキアはよく知られているが、他にも優れた技術が多くある。フィンランドはハイテクノロジーの国であるが、もちろん素晴らしい〔森と湖の国〕である。まだフィンランドを訪れておられない諸姉・諸兄に、かの地への訪問をお勧めします。

 

来し方を振り返ってみると、色々なことに出くわしたのは社会人となってからであるが、自己の形成に大きく影響したのは高校生時代を中心とした数年間であったように思う。当時の時代と環境(友人、家族・住居・・・親子人。一年生の家庭訪問の際、近藤初女先生は「むべなるかな」と成績不良の原因は、わが長屋と小さな路地を隔てた隣の木工所から来る凄まじい粉塵と騒音であることを、やさしくも認めてくださった??・・・等々)が、大きく作用したに違いない。ある友人の父君が亡くなられたことをきっかけに、生と死について真剣に考えたこと、ある研究会に参加したことは、今に至る考え方の根底にあるように思う。

平凡な中にもそれなりに様々な経験ができ充実した時期もあったが、中途半端が多かったとの悔いもある。そして現在、健康についての不安や、また、企業や国の捏造と隠蔽の体質がますます進んで行くのではと、年金の先行きと共に心配があるにしても、時間的に余裕があり好きに使える今が、やはり良いのかなと感じている。

会社の先輩・同僚が、マージャン、そしてゴルフに汗を流していたとき、ひとり邦楽(地歌三弦、琴古流尺八、筑前琵琶)にうつつを抜かし、三宮の飲み屋にボトルを数ヶ所おいて、睡眠薬代わりに飲んでは夜汽車に乗って出張に出かけていたのが懐かしい・・・おかげで、腰と頸の具合が悪くても楽しむことのできる趣味が身についた。

今の楽しみの一つがホームページ作りである(あった)。市販のソフトを買い、苦労して作り上げた(持病の頚椎変形症が悪化したのはこの為ではないかと、のめり込み過ぎたのを後悔しているほど)。今ではあまり見掛けない、旧くて重い大きなデジタルカメラで、花々を撮り目次に使っている。琵琶の音色も入っているので、時間のある方は一度覘いてみて下さい(http://www1.ocn.ne.jp/~biwakobo/)

もう一つは木工。十代半ばで弟子入りして以来数十年、父は大工・棟梁として過ごした。その父が遺した鑿・鉋の一部を譲り受け、時折使って楽しんでいる。

姫路、龍野など播磨のお城を散策の際には、少し足を延ばして宍粟市山崎町の花菖蒲園・千年藤、そしてわが工房へもお立ち寄り下さい。

兵庫区の中道通りに、小学校があった。中道、下沢、水木(一時的)通りに住む子供たちが通った中道小学校。今はないらしい。当時でも一学年僅かクラスであった。その中から女子名、男子5名が兵庫高校へ進学した。その中の一人玉出英夫君(一組)にバトンをお渡しします。

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