少年の夢、かくも成り難し・・・・・              (3組)田中章雅 

皆さまのリレーコラム、なつかしく、たのしく時にはしみじみと拝見しております。
名幹事長・北村さんに何度も背中を押され、「波乱万丈のユニーク人生を猛虎通信の名文?で」と乗せられ、送信いたします。折角の機会ですので、右往左往、有為変転?の自分史をなぞってみます。でもやはり“過去は美しく”想起するのでしょうね。
バトン先は畏友・野口昌彦君に依頼、了承もらってます。
 
(中道小学校の頃)
暗い記憶ばかりです。1〜3年生までいつも通知簿父兄欄に、「分かっているのに答えず反抗的。授業進行に協力を・・・」と書かれていた(授業で指名されても、「分かりません」一点張りの先生泣かせ。誰かが答えないと授業を次に進められない)。
4年の音楽の時間、密かに大好きな先生(叶順子似の美人)に、調子外れを苦笑され、以来、本格的音痴に。カラオケは今も敬遠(美人先生は不倫中が後に判明)。
卒業式で証書を授与される際、“以上、総代 タナカ アキオ”と呼ばれても席を立たず、厳粛かつ神聖?“な卒業式をぶっこわし・・・。
あとで、司会進行の先生(美人先生の不倫相手)に「なぜ、すぐ立たなかったのか」と詰問され、「名前を呼ばれなかった」「いや、何度も呼んだ」・・・「私はアキオでなく、アキマサです」・・・先生は「○□×・・・」、目を白黒、次に三角とし、で思いっきり張り倒され唇を切る。(家の親には転んで切った、と暴行教師を庇うケナゲ?さ。)
5年の頃までに児童室の本(読み物)はあらかた読み、6年には大倉山の図書館児童室に入り浸り、講談社版の「こども世界名作全集」約30冊を全部読んだ記憶(巌窟王、三銃士、ロビンフッド、ああ無情、牛若丸、安寿と厨子王とか)。
・・・部屋の係りのお姉さんに可愛がってもらい、岩波文庫の「坊ちゃん」とか北原白秋の本などをよく貸してもらった(美人ではなかった。世の中、うまくイカンもんです)
・・・・・・概して、内向性?のひきこもり、意地っぱりで根暗な読書少年だった、と思う。
小学時代、一番ショックは、3年頃、長欠児の家に先生に頼まれ何か渡しに行った時(あの番町地区です)。6畳一間に家族4人、級友は新聞配達で居らず、父親が昼間から一升瓶を抱え茶碗酒。
・・・・・・今思えば、これが私のその後の原光景だったかも知れません。
  (オリエンタルホテルに納入(ソース)していた我が家は、庭で三角ベース野球ができ、私は兄と2人で8畳間。その兄も兵高2年時、家出。生田川筋のスラムに住み込みそこから通学の変わり者)
 
(兵庫中学校の頃)
日本有数の過密校。1年生時は、大開通りの中華同文学院の間借の分校(6クラス)。入学時、分校生徒会長に指名されたが、「何かご意見を・・ありませんか・・なければこれで終わります」・・いつも3−4分でチョン。・・・先生泣かせの問題児は健在!
1〜2年時、大倉山図書館(一般室)で、「筑摩版日本文学全集」を高山樗牛クラス迄あらかた読んだ・・・3段組の本で辞書を引き引きの大苦労。(その後、“国語の勉強”とかをとくにせずに済んだのはこのお蔭?
2年時、日中友好協会神戸支部に入る。「人民中国」(もちろん日本語版)を購読。
3年時、集団検診で「肺浸潤」発覚。神戸医大に約半年入院。結果、留年。同室の作家志望のお兄さん(有馬温泉・旅館兵衛の息子さん)が次々と本を借してくれた。
再3年時、野口昌彦君と出会い、自分にとって初めて心が開ける友人となった。一緒にガリ版の同人詩集「しいの木」を発行、金子光代さんにも寄稿いただく。ガリ版切り・印刷・製本など面倒なことは野口君が一切やってくれ、彼には頭があがらない。
兵高受験の前日、映画「死刑台のエレベータ」(主演ジャンヌ・モローのファンだった)の音楽を彼の家で聞き、二人で「縁起の悪いものを聞いてしまった・・・これはアカンかも」とちょっと不安に駆られた記憶。
いろいろアドバイス頂いた国語の大内君子先生に深く感謝。
タナカ君なら入選するヨ、と先生の薦めで、神戸新聞「夏休み読書コンクール」に『坊ちゃん』で応募、3年生の部で1位入選、顔写真入りで紙上掲載、東京旅行に招待。小西六写真工業(現コニカ)など協賛社の工場見学後、3日目、はとバスで東京一日遊覧のところ理由を付けキャンセル、払戻金で神宮に行き六大学野球を観たあと、有楽町・日劇ミュージックホールでアンジェラ浅岡をみる・・・(未成年不可のところ学生切符を買い、入口で、兄さんが先に入ってしまった、とか言ってスルリと中ヘ・・・) ⇒ その後のハミ出し人生の始まり!?
 
(兵庫高校時代)・・・皆さん、ご存じのとおりですので、校外のことを。
クラブ: 校内では文芸部で「にあんちゃん」安本さんと一緒。感激。
社会科学研究会:1学年上の小室さんが創設した同好会。「資本論入門」「唯物論のすすめ」等の読書会。ときには校外で他校生と一緒に。
中国語: 神戸外大の市民講座に半年通う。ある日、教務主任に教員室に呼ばれ、「君はなぜ中国語を勉強しているの」と尋問?され吃驚、「先生はなんで知っているんですか」・・・「う〜ん、あまり目立つことをしない方が将来のためだよ」とアドバイス?される。家の近所の人が、「私服らしいのがアキさんのことを聞き回っていたよ」と両親へ。・・・。(おそらく講座の会館を出たあとをつけて、学校にも知らせたのだろう。日本の公安警察はスゴイ)

・・・頃は日中国交回復前、中国語を学んでいるだけでアカとみなされ尾行監視される時代もあったのですね。

・・・幸い、オヤジは社会党右派委員長河上丈太郎の信奉者で理解があった。しかし選挙では業界組合役員として自民党候補を応援、我が家の前で選挙カーが止まり演説、帰りにオヤジから白封筒を貰っていく・・・が、我が家の塀に貼られるポスターは夜中に破り捨てられ・・・。選挙違反の犯人は誰かな?
受 験: 兄は新島 襄にひかれ同志社へ。私は早稲田の文学部に行きたく英語と日本史しか勉強していなかったところ、高3の夏、家が商売(手造りソース製造)を廃業。一流ホテル、高級料亭に納めていて順調だったが、明治生まれのオヤジが手造りに拘り、朝から晩まで桶の中の野菜(ソースは20種類以上の野菜のジュース)を櫂でかき回す職人さんがいなくなったため。(同業は大きな洗濯機のような機械で製造へ)。いわば、産業革命に乗り遅れ、あるいは拒否(あんなのはソースじゃない、が持論)した頑固オヤジですが、私は好きでした。

・・・いずれにしても、大正時代からの老舗ソース屋のボンボン?からいきなりの暗転。日本育英会の奨学金(3千円)をうけ、大学も公立しか行けなくなり・・・

・・・慌てて数学や理科に取組むも遅し。京大失敗、大阪外大中国科は英語力で合格したが、生来の音痴で基本発音(四声と応用)が出来ず、第一の頓挫。

・・・(高、香、光、攻、行、好、鋼、鉱・・など何十もある「コウ」をイントネーションのアヤで区別発音必要、中国人の個人レッスンも受けたが音感が、と暗に引導わたされ、音痴の私はギブアップ。中学時代から「人民中国」購読、中国史もよく読んでいたのに・・・ショック!絶望!親ヲ恨ム!)
 
・・・三宮で映画館漬けの毎日(『映画評論賞』(大島渚等選考)受賞はその頃の話)。

・・・しかし、このままでは来年親の縁故で市役所勤め。しかも、昔選挙ポスターを破った自民党議員ルート! 悪いことはできないもの。なんという因果!

・・・気を取り直し夏の終わりから予備校で数学と理科を一からやり直す。

・・・文字通り朝から夜中まで、必死で勉強した唯一の時期。
 
(大学時代)
組 織: 翌年めでたく、京大文学部入学。兄は同志社で京都4大学共闘会議の副議長。
私は、ある組織に入ったが、カゲキな武闘への方針転換に多数が反論反発、大紛糾、執行部は半数以上を除名し方針を貫くも、わたしには第二の頓挫。
(残ったごく少数のカゲキ派はその後、みなさんご存じの浅間山荘、大菩薩峠の軍事訓練へとまっしぐら。除名が幸い?)
留 年⇒就 職:
    大学院を目指すも国文科のあまりにも古い体質(万年筆で年賀状を書いた先輩を満座の中、いつも羽織袴姿自慢の主任教授(西鶴研究の第一人者)が「無礼者!」と面罵する等)に嫌気さし、授業にも出なくなり・・・留年。

・・・学校へ行かず、留年で奨学金も停止となり、大阪日刊スポーツの長期アルバイトで生計を立てる。(4−9月は甲子園、大阪球場等の記者席でスコアブック付け、10−3月は記録データをテーマ別に整理。楽しい時期だった。
そのまま正社員の道もあったが、よく飲みに連れていってくれた運動部長が、アンタはヤケになっとる!もうひと踏ん張りせなアカン、といわれ再考。感謝。)

・・・留年のまま4年生6回生の夏休み、東京に遊びに行き先輩の会社でアルバイト、局長さんに好かれ、9月、今度はそのまま就職(河出書房宣伝局)。
(その局長さんも芝居にのめり込み中央大中退、俳優座研究所で仲代達也と同期だった由)
勤めながら、といっても土日やっつけで20枚の卒論を書いて翌春卒業。しかし、河出が5月に黒字倒産。黒字で倒産(不渡り)に驚き・・・。第三の頓挫。

・・・その頃、失業を承知で、「待つ」という名古屋嬢と結婚。
(結婚後分かったことに、尾張の中世からの旧家で、日常習慣、レジャーひとつでも悉く違い下町のソース屋の倅は何度ハジを掻いたことか。
特に子供の躾には仰天:試験前日、「自分の洗濯物をたたまない子が百点とっても、オカアサン、うれしくない」と机にしがみつく子供の襟首を掴んで洗濯物のところへ引きずり出す・・・好き嫌いを言うと、「お母さんの作ったものが食べれないならうちの子じゃない、出て行きなさい」とマンションから放り出す
・・・など)
   

   

・・・以後、下請でPR誌、夕刊紙(内外タイムス)の取材ライター(キャバレー深訪は情なかったが愉しかったのも事実)で生計を立てる。

・・・27歳で旧第一企画広報課、上司で仲人の課長が組合作りで干され  嫌気さし、30歳で今の会社へ。以来、どういう風の吹き回しか、すっかりいい子ぶりして?定着、北村さん言うところの“波乱万丈”の幕引き。

   

長々とお読みいただいた皆さま、ありがとうございました。北村名幹事長の煽てにうまくのれたかどうか・・・。まことに、少年の夢、成り難し・・・ザセツ、頓挫の連続でした。

純粋?な“少年の夢”を実社会において実現できたのは唯一、今の会社で年俸制導入実務を担当した時、年俸を年間固定でなく一部変動性とし、怠け者には厳しく頑張る者には年初提示より多く払う仕組みを提案し採用されたことです。なにせ、
労働者は(生来固有の)能力に応じて働き(但し怠けは懲罰・教育労働)、(個体維持上の)必要に応じて受取る・・・これがマルクス・レーニン主義のキーワードですからね。
(日本の組合の全員一律平等主義は、『資本論』読みの『資本論』知らず、なのです)

 小さい会社ではありますが、仲間(当社社員)の労働報酬の真に公正な配分は、古典の教え通り、ちゃんと守ることに少なからずお役にたてたと自分で思えることが、春風に舞うチリのようなかすかなホコリとするところです。  了  

 リレーは無二の親友・野口昌彦君にお願いしています。私と違い、バランスのとれた教養人。仕事では世界的な外資系の日本社長を務め、一方趣味は乗馬、ロクロ(陶器)、琵琶(奏じるだけでなく楽器自体も手作り)、ボールペン・時計はじめ手作り工芸品など実に多才・・・。国際ビジネスマンとしてのやり甲斐・苦労、また日本の“匠”としての薀蓄が期待されます。・・・野口君、よろしく。
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