(4組 藤原(旧姓:西村)紀子)

師走の小春日、明石駅へと続く“(けやき)”並木を歩く。

梢の秋、紅葉半ばで散ってしまった欅道、涼やかな樹透(きすき)からの木漏れ日が、遊歩人を暖かく包む。

 

夫が、「樹々は、夏には、葉を生い茂らせ、灼熱の太陽から人々を涼へと誘い、冬には、自身の葉を落とし、樹透から人々へ暖かい光を与えてくれるんだね」と。

母が、「大地を踏みしめ微笑(ほほえ)める心持ちたし悲しき時に・・・」と。

友が、「亡くなった人は風になるんよ。風になっていつもそばに・・・」と。

 

寂然の思いにひたり歩く私に、そんな声が聞こえてくる。

少女時代、

吉田町の鐘紡社宅に住んで居た父は、ヅカファンで、母と私達姉妹をよく宝塚へ誘った。大劇場へ続く道を、父と手を継ぎ胸をときめかし歩いた。「花の道」と呼ばれた道は四季折々の花樹が・・・。中でも“山吹き”の鮮黄色並木は、今も脳裏に・・・。

 

十才位の私に、母が《七重八重花は咲けども山吹の実の一だになきぞ悲しき》という古歌と[道灌]の物語りを語ってくれた。私は十才なりに感動した。家の居間に大きな堀炬燵があった。夕食の後、両親も交えて、トランプ、坊主めくり、花札に興じた。ある日、一枚の花札(雨の中、“柳”の木に飛びつく蛙)に秘められた古事を、父が、私達娘に語ってくれた。その日から、私はその札が大好きになった。書道も続け、今も書くのが大好きなアナログ人だ。

時は流れ私も妻となり母となった。

北落合から名谷駅へと続く“南京ハゼ”の並木道を、私は、勝手に「哲学の道」と名付けた。夫と私は[ベルリンの壁]、[ソ連の崩壊]等を熱く語り歩いた。「はらたいら」の様に博識の夫は、スポーツ、音楽、天体、美術等、幅広いジャンルを、妻と息子に、真摯に伝えてくれた。どれもこれも興味深かったが「タイガース愛」の父子の会話には、野球鈍の私は、劣等生だった。この並木道は、息子と仲間達にとっても「青春の道」だっただろう。

 

数年後、北海道に息子を訪ねた。レンタカーを借り、どこまでも続くデッカイ北海道を私達は、走りに走った。出会った北大の“ポプラ”並木は、まるで黄金色のルミナリエの様だった。

 

2002年から舞子浜の“松林”の中に建つ移情閣(いじょうかく)で、中国語を学び、移情閣コーラスにも所属した。

 

2003・4年と続けて、中国へ音楽の旅に出かけた。無錫から蘇州へのバスの窓からみたパノラマは、半世紀前の日本の光景だった。

梧桐(ウートン)(アオギリ)”の緑陰の下、人々は涼を求めていた。縁台が並び、下着ファッションの老太娘(ラオターニャン)(おばあちゃん)達が談笑しながら、赤坊を抱いていた。赤坊達は、みんなスッポンッポンで金太郎腹掛けを着け、頭は、あのマルコメ味噌のクリクリ小坊主ヘアーだった。

今、この文を、或る大切なものを前に置いて書いている。

それは、創立九十周年記念の金銀の(しおり)だ。(これは夫がデザインした作品) ’63年に、母校のユーカリ大樹は惜しむかな倒れたとか?しかし、この栞の扉を開き、デザインされたユーカリと「歩み」を(注:をクリックして通常サイズで)見ると、すぐに青春の足音が響きわたってくる。

 

二年前、息子の新居の庭の片隅に一本の細い記念樹が植えられていた。なんとそれが“ユーカリの樹”と知った時の驚愕!細い一本のユーカリと幼い孫達は、大地に根を張り空に向って共に伸びていき、そこには、いつも優しい風が吹いているだろう。

思い出深い樹々の並木道には、懐かしい私の昨日があった。明日へと続く道には、どんな樹々との出逢いがあるだろうか。
 

次は、タリアン会で、素敵な短歌をどんどん詠んでいる植松さんにバトンタッチ!

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