我が人生 (5組 長濱保之)                           

 私は49陽会の長濱保之と申します。現在62歳で無職、年金生活の身であり、きわめて自由で気ままな生活を送っている人間である。

私は六人兄弟の末っ子として誕生し、今で言うところの教育ママではなく、単なる教育熱心な母ひさゑに育てられた。それは学区外である長田小、西代中に通わせるため居所を変更し、高校は区域内の兵庫高校へ入学した経緯がある。
時に、小学校低学年時英語教師に英語を習い、中学校時代はこれからはロシアとアメリカの時代が来ると言って、NHKのラジオ講座ロシア語に熱中していたものである。

それ故、高校時代は将来外交官を夢見ていたが、大学入試で神戸外語大学に失敗するや何と諦めが早いことか、今度は弁護士になるためには、何が何でも東京へ行きたいと思うのであります。
これは末っ子として母ひさゑの愛情を一心に受けていたことが、私にとって自立心の妨げになると感じ始めていた頃でもあった。

東京へ行って勉強がしたいとの申し出に、父通男は「何で東京に行くんや、ここに居ればいいじゃないか」と言い、母ひさゑは「東京へ行きたいなら行きなさい」と寂しさをこらえて同意してくれた。

上京後の住む部屋は結婚間もない兄暉(二番目)の嫁の実家である石川恵美子のアパートの一室と決定した。ところは中野区川添町、
JR東中野駅前である。
2階一室とは物置であった二畳の間を急きょ中吊の押し入れをこしらえたもので、この部屋が私の東京生活のスタートであった。家賃は一畳あたり千円、私の部屋のほか1
Kの部屋2戸ありトイレは共同であった。
この部屋がまさに私の東京生活のスタートで5年間お世話になった。

扁桃腺の弱い私はよく夜中痛みに堪えかねてうなっていると、隣の新婚さんの奥さんがおかゆを作ってくれるなど何度か世話になってしまった。感謝しています。

昭和39年春、東京オリンピックの年に中央大学法学部政治学科に入学となる。明治大学法学部から、授業料免除待遇にするからと誘いがあったが、敢えて弁護士の資格を取得するのに有利な方を選択した。

入学式の前、後楽園の4人乗りブランコで両足首を骨折し、そのま救急車で入院となったが、通院のため東中野にある病院に転送してもらうことになった。これから
3ヶ月間リヤカーによる通院が始まった。このため、この間授業に出れず。当然学校から母の元へ「入学された息子さんが一度も授業を受けていないがどうされましたか」の手紙が舞い込んだので、母ひさゑは仰天し、石川家に電話がかかって来た。心配かけまいとしたことがかえってよくなかったと心が痛んだ。

1年目の夏休みは、補習授業を受けるため毎日水道橋にある理工学部のグランドに通った。やらされた種目はラグビーだった。その授業中前歯2本を折り、
JR東中野駅前の大野歯科医院へ、保険証もないことから、先生と相談しているうちに「貧乏学生から金を取るわけにはいかない」と無償で差し歯を作っていただいた。感謝しています。

母への甘えを絶つため、今まであった2万円の仕送りを断り、アルバイトだけの収入による貧乏生活がスタートした。貧乏とはいえ、将来東京に家を構えたいという夢があって、それはもう体が熱くなり毎日充実した日々だった。

アルバイト先は、安定収入と体力を必要とする仕事(給与が高い)として、学校に近い
JR東京駅前の東京中央郵便局で郵袋を地域別に選別する作業を選んだ。
勤務時間は夕方時から翌朝
時まで、仮眠は夜中の2時から4時までの時間である。
授業が始まるまでの2,3時間日比谷公園のベンチで仮眠したり、総武線に乗っても睡魔に襲われすぐ寝てしまい乗り過ごすことがよくあった。
当時日当
500円ぐらいの時に1300円前後の収入である。授業料を捻出するにはこれでは充分ではなく、春休み、夏休み等の時は昼間もアルバイトをし、金を稼いでいたのである。節約のため、給与が入るとJR神田駅前のデイスカウントストアー「ピンクベアー」でインスタントラーメンを1ケースと渡辺のインスタントジュース(チクロ入り)を買うのが毎月の行事で、コッペパンにコロッケをはさんでの食事が定番。また楽しみは暇を見つけては新宿から夜行列車に乗って、登山をすること。

記憶力の悪さと金の無さ故、弁護士をあきらめて、兵庫高校のクラスメイトである藤岡真喜雄君(中大法学部同期)の友人で埼玉出身の杉山誠一君の誘いで昭和43年4月埼玉県庁に就職することになった。

長い公務員生活のなかで一度大きな病気に遭い、大きな転機が訪れた。
それは二人目の子供が母のお腹にいる頃で35歳の時だった。ある日突然、目の前が真っ暗になり倒れそうになった。これは大変な事になったと思った瞬間またいつものように見えだした。何気なしに左目に手をかざしたら目の前が真っ暗なので、またまた驚いてしまった。そこで中大教授の紹介でお茶の水にある名医と評判の井上眼科へ行ったところ、中心性脈略網膜症という難病であるとのこと。

今後の生活習慣として
@夜更かしはしない
A酒タバコは禁止
Bとうがらし等刺激物は避ける
C肉類は食さない。よってカレーライスもダメと言われ、以後毎日豆腐を食べるなど食生活は激変した。

それから2年間二日に一度目玉に注射と3度の外科手術を行い、その後
年間治療に通うが変化無く、現在打つ手がないと言われたその時、医師から将来左目も失明する可能性があると。そこで好きな酒は呑みたいがと言ったら、良いでしょうとのこと、その日から夕食時に猪口一杯を恐る恐る飲み始めたものである。

三男坊が中学生になった48歳の頃、学生時代よくやった山登りを再開し、同時に写真にのめり込むことになった。それは庭に植えた4メートルにもなる石楠花の木に300もの花が咲き誇りそれをパネルにして飾りたいと思い一心に撮影したのが始まりである。

その頃武蔵丘陵森林公園を守る会の世話人である谷津弘子さんに出会い、その紹介で白鷺の写真家で世界的に著名な田中徳太郎を展示しているシラサギ記念自然史博物館の牧林功氏から写真展をやらないかと声をかけられた。これが初回の写真展「高嶺の花」となり、それは平成12年の夏のことだった。
この展示会に先駆けて、大阪難波出身の友人である寺下治孝氏から名前を神戸に因んで「長浜六甲にしたらええやん」ということで以後「六甲長浜」を名乗るようになった。

終了後、牧林功氏から次回の写真展は見沼の田圃をテーマにお願いしたいとの申し出があり、ありがたくお受けする事にしたが最初はプレッシャーのためなかなか思う写真が撮れずにいた、それから1年半は毎日のように写真を取り捲ったのであります。
この集大成が平成14年7月第3回写真展「見沼の夜明け」だった。このとき初めての購入者が埼玉新聞の女性記者だった。売却値段2万円だった。何より嬉しかったの は、私の写真を評価し、今も応接間に飾っているとのことであった。

このことから、老後は写真でと思い、ますます自信を深め、平成16年2月、第4回写真展「六甲長浜ひとり旅」を埼玉県立近代美術館で発表した。
18年2月には第5回写真展「ぶらりひとり旅」を埼玉県立近代美術館で、次回は第6回写真展「私の外遊日誌」を19年2月6日から11日まで埼玉県立近代美術館で開催予定。この2年間で撮り貯めたタイ・中国・南イタリア・カナダ・トルゴのものを発表します。マンネリに陥ることなく自然体で楽しみたいと思う今日この頃です。

お蔭さまでここ2,3年医者にかからず薬飲まず、現役時代より今のほうが忙しく毎日充実した日々である。なお、元気で人生を全うするため下記の7つを守っている。

1 何かしたい意欲を常に持ち続けること。写真・登山・旅行

2 足を鍛えて健康を維持する。3日に1回筋肉トレ1時間以内

3 睡眠は7時間とし、不足や取り過ぎは良くない。

4 食事は少なめとし、主に根菜食、肉月一回。魚週一回を目安。

5 水道の水は直接飲まない。塩素は大敵、万病の元。

6 料理は自分ですべし!化学合成の添加物の排除。

7 酒は気分が良い時に食らうべし!

            

平成18年11月29日

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